Lovefool : Seifer : 10

 一夜明けて、リビングに現れたスコールは、まさに「どういう顔をしたらいいのか」って顔をしていた。
 重そうな瞼は、寝不足のせいだろう。
 いつもの俺なら、からかってやる絶好のチャンスと捉えるところだが、残念ながら、俺もいつもの俺とは程遠い。
 昨夜の展開はまるで想定外で…スコールが次にどう出るのか、まったく読めなくなっちまった。
 万が一、またスコールからキスしてくるようなことがあったら、一体どう対処したらいいんだろうな…。
 避けるのも変だし、上手く断れる自信もねーし…。
 それに、キスされたらされたで設定上、俺からも返さねーといけねえ気もするし…。
 そんなことを考えていたせいで、トーストは焼き過ぎ、コーヒーの蒸らしにも失敗したが、朝食の味どころじゃねえのは向こうも同じらしく、スコールは全く気付いていないようだった。
 奴は、いつにもまして無口だ。
 しかも、多分…昨夜のことを、死ぬほど気にしてる。
 目を合わせたくねえくせに、どうかするとつい俺を見てしまうようで、はずみで視線がぶつかると、傍目にも分かるほど赤くなり、慌てて顔を背けやがる。
 そういう仕草を見ていると…なんだか、こっちまで照れ臭くなっちまう。
 何とも言えず、妙な雰囲気だ。
 二人っきりの部屋で、こんな空気を吸っていると、また自分が何かしでかすような気がして怖ええ…。
 どうにも落ち着かねえ気分のまま、SeeD服に着替えて執務室に向かうと、普段より早く着いたにもかかわらず、遅刻魔のセルフィを含め、全員が着席していて驚いた。
 皆それぞれに、スコールの様子が気になるんだろう。
 連中はやたらと探りを入れたがったが、探られたくねえスコールは、「問題ない」と短く説明を済ませてデスクに着き、通常通りの業務に没頭した。

 現地調査に出ようと駐車場に向かうと、先に外出したはずのセルフィが俺を待ち伏せていた。
「ねー、もとはんちょ。スコールはんちょと喧嘩した?」
「…してねーよ」
 スコールと俺との間に漂う緊張感を嗅ぎつけたらしいセルフィは、5号車のボンネットに腰を預け、いぶかしげに俺を見る。
「でもぉ、何か昨日と雰囲気違くな~い? やっぱりこのハナシ、疑ってるのかなぁ?」
「いや、それはもう無ぇだろ。…あいつ、すっかり信じ切ってるし」
「え! そうなの? えー! なになに、何か言われたの~??」
 興奮した声が、駐車場じゅうに響き渡った。
 ここで「キスされた」なんて言ったらエライ事になるだろーな…。
 ましてや、俺から無理やり…唇にキスしちまったなんて知れたら、大騒ぎだ。
「何でもねーよ。あしたネタばらしすんだろ?」
 俺はシラを切って、ガンブレードを積み込んだトランクを閉める。
「うん! この調子で、あと一日お勤めよろしく~!」
 ボンネットからぴょん、と飛び降りて笑顔を見せるセルフィの言葉に、俺は…改めて、このゲームの残り時間を実感した。
 あと一日。
「…おう」
「あれ? なになに、もう疲れちゃった~?」
「いや…」
 俺は言葉を切った。
 あと一日。予定通りだ。…何か問題あるか?
 セルフィは俺の目を興味深げに覗き込み、首を傾げた。
「あー、もしかして、それとも…延長希望?」

 その場では「馬鹿言うな」と一蹴したが、内心は少々複雑だった。
 セルフィを追い立てるように任務に送り出し、自分も運転席に乗り込みながら、俺はまた昨夜のことを考えている。
 スコールが、思い詰めた顔で、身体を寄せてきたときは…驚いたな。
 右頬にあの唇が触れたのには、もっと驚いた。
 全部忘れちまったっていう、罪悪感のなせる業なんだろーが…スコールが、あんなに俺に近づいてくるなんて、思いもしなかった。
 この事故の前、俺とスコールはいつになく上手くいっていた。
 例えばの話、こんなふうに騙さなくたって、あのままゆっくり距離を詰めていけば…そりゃ、恋人とまでは行かねえが…今までとは違う関係になれただろうか。
 …いや、駄目だな。
 イグニッションのキーを回して、苦笑した。
 あいつは多分、そうなる前に、また忘れっちまう。
 今までずっとそうだった、俺はそう考えながら、ギアをローに入れ、アクセルを踏んだ。
 一緒に途中まで進んでも、いつか振り出しに一人で戻っていっちまうんだ。

 * * * * *

 調査は思ったよりも長引き、ガーデンに到着したのは夕刻だった。
 執務室に戻ってみると、スコールは、落ち着いた表情で書類に目を落としている。
 腕の時計の表示によれば、あと数分で上がりの時刻だ。報告書は明日でいいだろう。
 カメラのデータをPCに取り込んだら、スコールの業務を進み具合をみてやって…それから晩飯をどうするか、と考えを巡らせる。
 とりあえず、復帰初日にトラブルがなくて良かったな、とすっかり終業したつもりでいたとき、朗らかな声が耳に飛び込んできた。
「おっハロ~、スコール!!」
「リノア…」
 スライドドアを開け放ち、颯爽と入ってくる姿を認めたスコールが、席から立ち上がる。
「へへ~、ひっさしぶり~! みんな元気~?」
 屈託ない笑顔を振りまく、この招かざる客に、委員会室の空気は急速に緊張した。
「リ、リノア…今日はまた急に、どーしたん?」
 セルフィの裏返った声から、何の根回しもしてねえのは明らかだ。
「ママ先生のお使い~。ちょうどいい時間だから、一緒に晩ご飯でもどうかな~っ?って」
「あ、う、うん…」
 これがスコール抜きの誘いなら、すぐさま魔女をどこかのディナーテーブルに隔離しちまえば済む。
 だが、リノアは結局のところ、形の上では振った奴を今でもとても気に掛けていて、こうして時折顔を出しては、仲間ごと強引に息抜きに引っ張って行くのが常だ。
 そう簡単に引き下がるとは思えねえ。
「…あれ?…もしかして、お邪魔? ねえ、何かあった?」
 いつもはノリよく返ってくる反応がないのに気付き、リノアは不思議そうに周りを見渡す。
 原因が自分にあると思ったのだろう、スコールはうつむいて告白した。
「いや…。実は…俺、また記憶を失くしたんだ」
「えええーーー! またあ? しんっじらんなーいっ!!」
 間髪入れず、魔女が叫ぶ。
 しかし…叫ばれて落ち込むスコールを含め、誰もリアクションが返せねえ…。
(おい、この流れ、どうやって止めるんだ?)
(ど、どうしよ~??)
 セルフィ監督に目顔で尋ねるが、まったく策が無いらしく、童顔を引きつらせて固まっている。
 引き続き流れる奇妙な沈黙に、リノアは不審そうに首をひねりつつ、スコールとの会話を進めた。
「…それで、今回はどのぐらい忘れちゃったの?」
「…一年分ぐらい」
「な~んだ! またそこまで戻っちゃったの~?」
「…俺、三回目なんだってな」
 あ、やべーな、と俺は反射的に眉をしかめる。
「え? 四回目でしょ?」
「…?」
「ほら、この前、キスティスが『仏の顔も三度まで!』ってすっごく怒ってて…」
「…」
 スコールがゆっくり瞬きし、対面のデスクに目を向けると、センセはぎくりと身体を強張らせて視線を泳がせる。
「セルフィなんか、『次があったらどーんと担いで思い知らせたる!』って息巻いてたじゃない。ねっ?」
 …こりゃ、アウトだ。
 何も知らない魔女の駄目押しに、セルフィは「あちゃ~」と片手で眉間を押さえ、天井を仰いだ。
「んも~、リノア~! せっかく明日、盛大に発表しようと思ってたのに~」
「え~? わたし、…なんかマズかった??」
 セルフィの無念そうな抗議を受けて、リノアは胸を押さえて立ちすくんだ。
「せっかくの企画だったんだけどな~。 ま、一日繰り上がっただけだからいっか!」
 部屋中が注視するなか、セルフィはロクでもねーガラクタが山ほど突っ込んであるデスク下の段ボール箱から、何かを引っ張りだした。
「じゃーん!! ドッキリです!!」
 …いかにも一昔前、って雰囲気のプラカードを高々と掲げるセルフィ。
 いつの間にそんなの作ったんだか…。
 正直ちょっと引いたが、ここはおそらく拍手しなきゃなんねえんだろうな、という空気が流れ、周りに合わせて俺もおざなりに手を叩く。
 だが、ここに至っても…スコールは事態が飲み込めないようで、セルフィが得意げに突き付けてくる、文字の周囲をハートマークで飾られたカードをぼんやりと眺めている。
「ドッキリって………何がだ?」
 心底不思議そうな口調に、どうしてか、俺のほうの心臓がひとつ跳ねた。
 お前…マジで分かんねえのか。
 俺はカメラからカードを取り出そうとしていたのも忘れて、スコールを見つめた。
「何がって…やだ~、はんちょってば! ホントに信じちゃったんだ~?」
「だからー、サイファーが恋人ってヤツだよ! スコール、真剣に悩んでたろ?」
 もう一秒たりとも待てねえ、って勢いで、チキンが割り込む。
 そうだな、コイツにゃこの状況は…どうにも我慢出来ず、じりじりしてたんだろう。
「ああ……悩んでた」
 スコールは事実を肯定するが、まだ放心した表情のままだ。
「だろ~? オレさ~、もう昨日の時点で、何回言っちまおうかと思ったぜ~」
「ゼル、抜け駆けはダメだよ! 僕らだって怒られんの怖いんだから~」
 チキン野郎とヘタレの情けねえやりとりを聞き、ここにきてようやく「企画」の内容を把握したらしいスコールは、気の抜けたような声で呟いた。
「…じゃ、………今までの、…嘘か」
「そ。うっそだよーん。へへへー。はんちょ、焦った?」
 セルフィが笑み崩れて頷く。
「だって~、はんちょってば、無茶ばっかりするんだもん」
「そうよ、スコール。あなた、自分の記憶を安易に犠牲にしすぎ。いくら口で言っても、ちっとも改まらないから、本格的に懲りてもらおうと思って」
 ここぞとばかりにセンセが説教を始めるところへ、ヘタレが大きなため息をついた。
「でもさ~、みんな意外と演技派だよね~? 僕なんか嘘下手だから、驚いちゃったよ~」
「だよなぁ。オレ、まさかあの設定をスコールが信じるとは思って無かったぜ」
 やっとこの嘘から解放されてホッとしたのだろう、チキン野郎も頷きながら笑顔を見せた。
「ねえねえ、どう? はんちょ、悪い夢から覚めたご感想は?」
 いまひとつ反応の薄い主役の顔を、セルフィが無邪気に覗き込む。
 スコールは、机上の一点を見つめたまま固まっている。
 そこで初めて、キスティスが不安そうな表情を浮かべた。
「スコール? ちょっと、スコール、大丈夫?」
 …返事が無い。
 全員が見守るなかで、スコールはゆっくりと顔を上げ…薄青い、真ん丸な両目で俺を見た。
 その目は、どこか頼りなく揺れていて…
 駄目だ。
 まだ恋人気分が抜けねえ俺には、どうしたって…ひどく可愛く見えちまう。
 お前、本気で信じてたんだな。…自分が、この俺に惚れてたって。
 その呆然とした顔から、慌てて目を背けたが遅く、喉から忍び笑いが漏れた。
 今のお前は、ガーデンじゅうの憧れの指揮官で、リノアの後釜に座りたいって女を追っ払うのに骨が折れるぐらいだっつーのに…
 好き好んで男の、しかも俺を選ぶって…フツウに考えりゃ、そんな訳ねえだろ。
 ニヤける顔をなんとかしようと口元を覆ったとき、スコールが口を開いた。

「…あんたら、全員出ていけ」

 聞き覚えのない低い響きに、俺の頬は凍り付いた。
 感情を極力抑えてはいたが、それは紛れもなく、腹の底から発せられた命令だった。
 その場は水を打ったように静まり返り…セルフィが、焦ってスコールのデスクに飛びついた。
「ちょ、はんちょ…マジで怒っちゃった?」
「出てけよ」
 スコールは、机の表面から視線を動かさず、はっきりと発音した。
「おい、スコール…そんな…」
「ご、ごめん~、スコール、あの、」
「出ろって言ってるのが聞こえないのか?」
 ゼルとアーヴァインがとりなそうとするのを、スコールは強く遮る。
 その声は震えていて、奴が必死で感情をコントロールしようとしているのが分かる。
「スコール…」
 心配そうなリノアにだけは、スコールは苦しげに詫びた。
「あんたには申し訳ない。関係無いのに、嫌な気分にさせて」
「ねえ、スコール。皆の話…」
「聞きたくない」
 だが、拒絶する態度は変わらない。
「スコール。ごめんなさい、わたしたち…」
 キスティスが泣き出しそうな顔で立ち上がると、スコールは顔を背けた。
「キスティス、出てってくれ。今日だけでいい」
 きっぱりとした口調で言い渡す。
「頭が冷えるまで、独りにしてくれ。こんな馬鹿げたことで、あんたを殺したくない。…分かるだろ?」
 その主張は明瞭で、キスティスは頷くしかなかった。
 俺は…身動きも出来ずに、ただただスコールを見ていた。
 そりゃ、怒るだろう。
 キスしたことに関しちゃ、殴られるかもしれねえ、そのぐらいは考えていた。
 だが…「あんたが恋人なんかじゃなくて良かった」、そんな憎まれ口のひとつも叩き、お前はその事実だけは喜ぶものと思っていた。
 こんな、安堵の欠片もなく、ひたすらに怒りをたぎらせるとは、思ってもみなかった。
 キスティスが、セルフィが、ゼルが…アーヴァインが、うなだれて扉から去って行く。
 その光景を目の当たりにして、ようやく声が出た。
「…スコール」
「失せろ」
 そう短く吐き捨てたスコールは、俺を見ない。
 視界に入れるのも嫌だ。…そう思っているのが分かる。
「リノア、頼むから、こいつを連れてってくれ」
「ね、サイファー、とりあえず行こ?」 
 リノアが俺の手を引く。
 スコールは…もう、俺を許さねえかもしれねえ、と突然に思った。
 …そんなつもりじゃなかったのに。
 絶望に似た後悔に襲われて、視界が狭まる。
「なあ、待ってくれ、スコール。悪かった。まさか、お前がそんなに…」

「とっとと失せろっ!!」

 スコールが怒鳴った。
 俺は息を呑む。
 ようやく俺を見た両眼には、鮮やかな憎悪が燃えて揺らめいていた。
 お互い子どもで無くなってから、これほどまでに自制を失ったスコールを見たことがなかった。
 …どうしてだ?
 初めは…他愛もない冗談だったはずだ。
 なんで…こうなっちまったんだ?
 動けなくなった俺の腕を魔女が力任せに引っ張り、目障りな俺を何処かへ連れ去って欲しいというスコールの望みを叶えた。

* * * * *

 スライドドアが開いて、リノアが戻ってきた。
「…どうだった?」
「…持って帰ってくれって。明日までひとりにしてほしいって」
 食事の載ったトレイを手にしたまま、リノアはため息をつく。
 スコールに執務室から追い出された俺たちは、同じ管理棟内の会議室に集まっている。
 向かい合わせに固められた机を囲み、パイプ椅子に座った面々は言葉少なだ。
 すでに夕食には遅い時刻になっていた。
 だが、あんなスコールを見た後で、全員、食欲なんか湧きようがねえ。
「どーしたらいいんだろーな…」
「うーん…あれじゃ、すぐには無理だと思うなぁ」
 チキン野郎が何度目か分からない呟きを漏らすのに、リノアは肩をすくめる。
 セルフィがとうとう、堰を切ったように泣き出した。
「…みんな…ゴメン…!」
 困り切った視線がテーブル上を行き交うと、自身も相当に憔悴しているキスティスが立ち上がり、後ろからセルフィの肩を抱いた。
「ゴメンね…。こんな…。こんなことになっちゃって…」
「セフィ…」
 アーヴァインが、痛ましげに眉を寄せる。
「あの石の家で…一緒にいたのに、みんな大好きだったのに、忘れちゃってたから…今度はいっぱい、思い出作りたくて、バラムに残ったの…」
 涙にまみれた顔をぐしゃぐしゃに歪め、セルフィはしゃくり上げた。
「だけど…はんちょは、すぐ忘れちゃう。…ううん、忘れちゃうのはしょうがないけど…、忘れちゃっても、はんちょがそれが平気みたいなのが、寂しかったから…」
「皆、そんなに悪気があったわけじゃない…最後には、許してあげなくちゃいけないって、スコールもちゃんと分かってるよ」
 泣きじゃくるセルフィを、リノアは穏やかな口調で慰める。
「だけど、今は、まだ無理みたい。…そっとしといてあげたほうが、いいと思う」
 リノアが諭すようにそう結ぶと、泣き止まないセルフィの代わりに、キスティスが答えた。
「分かったわ。…本当にありがとう、リノア。こんなことに巻き込んでしまって、ごめんなさい」
「ううん、わたしのことはいいの。スコールが心配だけど…今は、どうしようもないかも」
 そう言って、リノアは「じゃあわたし、帰るね」とスライドドアを開け…
 それから、一言も口を利かず、黙りこくって座っている俺を振り返った。
「ねえ、サイファー。スコール、傷付いてたよ」
 …そうだな。
 あの顔は…ただ怒っていたんじゃなくて、やっぱり、傷付いてたんだよな。
 ろくに事情も知らねえはずだが、魔女は持ち前の直感で、俺にだけ冷ややかな視線を向けた。
「一年前…わたしが『さよならだね』って言ったときより、酷い顔してた」
 言葉も出ねえ。
 騙されたスコールは、それでもまだ信じられない思いで、俺を見たに違いない。
 今さら悔やんでも遅いが…俺は、そんなスコールを笑ったんだ。
「明日、ちゃんと謝ってね?」
 そう言い残して、リノアは帰って行った。
 キスティスが「今日はもう、あきらめましょう」と解散を決め、俺たちも会議室を後にした。
 セルフィを抱きかかえるようにしたキスティスとゼルが何か話しながら、寮へ続く廊下を歩いて行く。
 だが、俺は…どうしても、独りでスコールの居ない部屋に戻る気になれなかった。

(とっとと失せろっ!!)

 あんな顔で、あいつが怒鳴るなんてな…。
 俺とスコールは、ガキの頃からそれこそ数限りなく仲違いしてきたが、感情をあらわにするのを嫌うスコールは、いくら挑発しても、あんなふうに我を忘れて声を荒げたりしなかった。
「…サイファー、何処行くの?」
 後ろから声が掛って、俺は執務室に向けた足をとめた。
 振り返ると、ヘタレ野郎が一人残って、俺を見張るように立っていた。
「…煙草だ」
 同じ方向の階段を指差すと、「僕も」とひっついて来やがる。
 執務室に続く分岐で俺が立ち止まると、アーヴァインは既に察しのついた顔でわざわざ訊いてくる。
「デッキに行くんじゃないの?」
「…」
「スコールのとこ行くの? 今は、一人にしてあげたら?」
「…そうしなきゃいけねえのは、分かってっけどよ…」
 人気のない廊下に目をやった。
 一番奥のドアの向こうに、スコールが居る。
 こうしている間にもきっと…スコールの心は、俺から遠く離れたところで、冷えて固まろうとしている。
「とりあえず、煙草、付き合ってくれない?」
 アーヴァインは、いつになく高圧的にそう言うと、強引に俺をハッチに追い立てた。

 重い扉を押し開けて、デッキに出る。
 夜の外気は冷たかった。
 手すり越しに見渡すと、周囲の森は黒々として、月には雲がかかっている。
「…スコールに、何かしたんでしょ?」
「…してねーよ」
 いきなりの尋問は、半ば覚悟していた。
 ボックスから一本抜き出したはいいが、火を付ける気になれず、俺は指先で煙草をもてあそぶ。
「ウソだね。スコールに何したの?」
 付き合えと言ったくせに、奴は自分の煙草を取り出しもせず、静かに問いただしてくる。
「…そんな、たいしたことはしてねーよ」
 俺は言葉を濁す。
 秘密は俺だけのものじゃねえ。
 スコールはきっと、騙されて俺に唇を許したことを、仲間に知られたくねえだろう。
「じゃあ訊くけど。…それって、僕がスコールにしても平気?」
 な…。
 女慣れしたヘタレ野郎が、スコールに覆いかぶさり、いかにも優しげに唇を重ねようとする光景が、俺の脳裏に描かれ…指先から、火もつけていない紙煙草が滑り落ちた。
「ほら。凄い顔しちゃってさ」
 思わず眼を剥いて睨みつけた俺に、奴はあきれたようにため息をつく。
「何が言いてえんだ、テメエ」
「……バカじゃないの?」
 腕を組み、アーヴァインはそう言い放った。
「何だとお!?」
 瞬間的に怒りが閃き、目の前の胸倉を掴んだが、奴はひるまなかった。
「バカじゃないのって、言ったの」
 まっすぐに俺を見て、信じられねえ台詞を繰り返す。
 自分なりの考えを抱いていても、他人には滅多にそれを押しつけたりしねえアーヴァインが、これほどはっきり俺を罵倒したことに驚いて、俺は掴んだ手を離した。
「どうして…そんな可哀相なことしたの?」
「なんだよ、俺だけがやったみてーな言い方すんなよ。…そもそも、お前のちびっこが元凶じゃねーか」
 痛いところを突かれて、矛先を逸らそうと、俺が苦し紛れに言い返すと、奴はすっと顔をこわばらせ、静かに俺を呼んだ。
「…ねえ、サイファー」
「なんだよ」
「ホントにそんなふうに思ってるなら、謝りに行かないほうがマシなんじゃないかな」
 …。
 これは堪えた。
 こうも正面切ってズバリと「お前がやったことだ」と言われると、正しくその通りだった。
 そうだ。
 俺は…スコールがあの嘘を少しずつ信じていくのを楽しんでいた。
 もしかして、本当に恋人だったのかも…と、スコールの態度が、俺を見る目が、戸惑いながら変わっていくのが嬉しかった。
 後で裏切ることになるって知ってたくせに、ただ浮かれていたんだ。
「サイファーは、あんなふうに怒るスコール見て、なんとも思わなかったの?」
 アーヴァインは、容赦なく追い打ちを食らわせてくる。
「僕はね、こんなことなら、僕がやればよかったと思ったよ」
 …そうだろうな。反論の余地もねーよ。
「同じ騙すにしてもさ。何も、惚れさせる必要ないじゃない」
 直視しねえようにしていたところを指摘され、甘苦く胸が痛んだ。
 そうか…。
 俺を意識して、しきりと気まずそうにしていた、今朝のスコールを思い出す。
 あれはやっぱり、そういうことだったんだな…。
「どうして、三日後には嘘になるのに、本気にさせたの?」
「…違う」
 俺は、まさか…あいつがあんなふうになるなんて、思ってもみなかった。
「何が違うの?」
 …俺は、スコールの気持ちなんて、考えなかった。
 考える余裕なんざなかった。
「…俺は…惚れさせようなんて、考えちゃいなかった。ただ、」
 キスしたくて、キスした。それだけだ。
「ただ何? はっきりしないの、サイファーらしくないね」
「クソ。…俺の方が、引っかかったんだ。ったく…」
 自分の唐突な行動に戸惑って、それに理由を見つけることばかり考えてた。
 本当の理由なんか、考えるまでもなかったのに。
 とうとうそれを認めると、不可解なことなど何もなかった。
「テメエ…こうなるって分かってたのか?」
「まさか。分かってたら任せないよ」
 苦笑して、アーヴァインはデッキの柵にもたれ、遠くの街を眺めた。
「こんなことになるなんて、思わなかった。ゼルの言うとおりだったね」
 確かに…チキン野郎の予言通りだ。
 俺のアドリブで、話はまるで別の筋書きになっちまった。
「…スコールに、謝りに行ってくる」
「明日まで待ってあげないの? スコールも、少しは気持ちの整理がつくかもしれないよ?」
「…整理がついちゃ困るんだ。お前らは、明日まで遠慮しといてくれ」
 言葉にすると、わずかに残っていた迷いが消えた。
 手すりから身を離す俺を、アーヴァインは再び呼び止めた。
「サイファー。スコールのこと、本当に好きなの? ただ、役に流されてるんじゃなくて?」
 いつもの軽薄な演技はそこにない。アーヴァインは真顔で俺を見ていた。
 そうか…これが本題か。
 コイツはそれを確かめについて来たのか…。
「俺も…さっきまではそう思ってた。早く謝って、間違いだった、許してくれって言うつもりだった」
 俺はとにかく、スコールに謝ることだけを考えていた。
「…そうじゃねえって、やっと分かった。俺は…無かったことには、したくねえ」
 自分がこれから、何をしようとしてるのか考える。
 信じてきた価値観が、いかにアテにならねえかを思い知る。
 魔女戦争までの経緯に、この一連の罪状が加わった。
 そのうえで、全てを赦して、俺の恋人になってくれと訴えたとして…
 それがスコールの耳にどう聞こえるかを想像すると、さすがの俺も目の前が暗くなるが…そこは、考えても仕方ねえ。
「…そっか~。それじゃ、止めてもしょうがないかな~」
 腹を括った俺を見て、奴はいつものヘタレ野郎に戻り、ハッチのドアを開けた。
「お前、結局吸わねえのな」
「いや~、実は執務室に忘れて、怖くて取りに戻れなくってさ~。部屋で吸うから、一本くれない?」
 ヘタレは悪びれず、俺にへらりと笑ってみせた。
「なんだそりゃ…。わーった、やるから持ってけよ」
 俺はポケットから潰れかけた煙草を取り出し、箱ごとアーヴァインに投げてやった。
「サンキュ。じゃ、サイファー、…頑張ってね」
「……おう」
 軽く右手を上げて箱をキャッチすると、奴はそれを振ってみせ、そのまま階段を降りて自分の寮へ帰って行った。

 夜の管理棟は静まり返って、人工灯が冷たく廊下を照らしている。
 俺は一人で、執務室のスライドドアの前に立った。
 嫌というほど分かっている。
 この中に居るスコールが、今は誰にも会いたくないことも…
 とりわけ、世界中で最も会いたくない人間が、この俺だということも。



2013.09.29 / Lovefool : Seifer : 10 / to be continued …