一発逆転。*2

 サイファーが出て行って、白い扉は音も無く閉じた。
 口元を拭うと、唾液で手の甲がぬるりと滑った。
 煮えたぎっていた頭が冷たくなる…どんなみっともない顔をしていたのか…考えたくない。
 俺は…。
 俺は、これからリノアと結婚するんだ。
 そうだ。しっかりしなくちゃ。
 舌に残る余韻が非現実的で、でも紛れもなく現実で、俺は自分を取り戻そうと控室の鏡の前に立つ。
 黒い礼服を着たぼんやりした男が、向こう側に立っている。
 生まれて初めて殴られたみたいな、情けない顔をしている。
 俺はいったいどうしたんだろう?
 いくら激しくたって、好きでも無い相手とのキスひとつで、俺の世界はひっくり返ったりしない。
 しないはずなのに…信じていた自分の輪郭がぐにゃりと歪んで、耳も目もふさぎたい気分になる。
 コンコン、と軽いノックが聞こえた。
 誰にも会いたくなかったが、「どうぞ」と勝手に口が答えた。
 ドアが控え目に開いて、白いバレエシューズのつま先が現れる。
 透き通る白いベールに、ミニのウエディングドレス。
 黒目がちの瞳で微笑みながら、彼女は人目を忍ぶ仕草で、扉の隙間からそっと入ってきた。
「へへ。来ちゃった」
「リノア…」
 何種類もの気持ちが、俺の中をばらばらに泳ぎ回っているのがわかる。
 ほっとするような、後ろめたいような、縋りつきたいような、ひどく遠くに居るような…
 …全て話してしまいたいような、何も知られたくないような。
「びっくりした?」
 ベールの内側で、黒髪をアップに結ったリノアは、いつもより鮮やかな口紅を引いている。
 すごく綺麗だ、と思うのに、その言葉が口から出て来ない。
「…どうしたんだ?」
 挙式の前、花嫁と新郎は会っちゃいけないんだよ、と言っていたのはリノアだったのに。
「だって廊下覗いてたら、サイファーがな~んか、すっごいカオしてこっちから来るのが見えたから」
 心配になっちゃって、とちらっと舌を出すリノアに、俺は一体何をどう説明したらいいのか、見当もつかずに黙り込んだ。
「…」
「あれ。まさか手遅れ?」
 リノアが不安そうに首を傾げると、ベールを飾った白い花がふわんと揺れた。
 言えるわけが無い。
 けれど、黙って式を挙げるのも、リノアに対する裏切りのように思えて、俺は途方に暮れてしまう。
「ねえ、スコール。どうしたの?」
 優しく呼びかけてくるリノアに、俺はどこまで話したものか、迷いながら口を開いた。
「……俺、サイファーが、リノアを好きなんだと思って」
「サイファーにそう言ったの?」
 俺が頷くと、リノアはちいさく笑った。
「サイファー、怒ったでしょ?」
「…怒った」
 リノアは困ったように微笑み、ゆっくりと近づいてきた。
「それから……キスされた?」
 静かな問いは、すでに答えを知っている響きで、俺は彼女には隠し通せないと悟った。
「……リノアは、何でも分かるんだな」
「分かるよ。いっそ分かんなければいいのに、って思うことがあるぐらい」
 リノアは、言葉を切って、じっと俺を見つめてくる。
「ね、スコール、わたしの目を見て」
 言われるがままに、リノアと視線を合わせた。
 長い睫毛に縁どられた彼女の大きな瞳が、複雑な色を湛えて、俺を映している。
 俺は、リノアを好きだ。…とても、大事に思っている。その気持ちに、何も変わりは無いはずだ。
(わたしのこと、愛してる?)
 いつものように、そう訊かれるのだと思った。
 もちろん愛してる。心からそう答える準備をして、リノアの言葉を待った。
 彼女は俺の両目をまっすぐに覗きこんで、訊いた。

「サイファーのキス、よかった?」

「なっ…!」
 絶句した俺に、リノアは吹き出した。
 結った髪から白いベールを外して…それを、ふわりと拡げて俺の頭に被せ、にっこり笑って言った。
「失格」
 ベールに包まれた俺の顔を見つめ、白いグローブを嵌めた指を、ゆるやかに俺の額に伸ばしてきて。
「スコール、乙女なカオしてる」
 びしっ!
「つっ」
 思い切り「でこぴん」された…。骨に響くほどの一撃で、額がびりびりと痺れる。
「騎士としての誠意は信じてるし、愛してくれてるのも分かってる」
「…」
「でもね、誰かに恋しちゃってるひとは失格。花婿失格」
 リノアは俺の目を覗きこんだまま、黒い瞳で、優しく微笑んで宣告した。
「リノア…」
「王子様のキスで…魔法が解けちゃったね」
 なかなか効かなかった魔法、やっとかかったと思ってたのに。
 そう言ってリノアは、俺の頭からベールをするりと引き、そのままそれを空気のように羽織って、俺に背を向けた。
「魔法?」
「忘れちゃったの、スコール?…わたしのこと、好きになーる、好きになーるって、掛けたじゃない」
 あの夜と同じに、リノアは俺を振り返る。
 パーティ会場のシーンが、胸に甦った。
 夜空に星が流れて…、初めて会うリノアが、俺に合図を送ってきて。
 俺の手を取って壁から引きはがして、明るいフロアの真中に引っ張って行って…。
 軽やかなリノアはまるで、別の世界から来た人間みたいに見えた。
「スコール、わたしね…焦ってたの。スコールがまだ誰のものでもないうちに、わたしのものにしちゃおうとしてたの。…分かってたから。スコールは、わたしに本物の恋はしてないって」
「…そんな」
 ずきり、と胸が痛んだのは、俺も…薄々、それを知っていたからだ。
「でも、もしかしたらスコールは、このまま誰にも恋しないんじゃないかって思ったの。早く、わたしのものにしちゃえば、スコールは優しいから、他のひとを見たりしないんじゃないかって」
 だから、いつも…いろいろ、強引だったよね、ごめんね、とリノアは目を伏せた。
「そんなこと…ない。俺が…付き合い慣れて無かっただけだ」
 自分からは求めて来ない俺に、リノアは…ずっと悩んでいたのかもしれない。
 俺は…リノアを抱くとき、いつも、何か後ろめたかった。
 裏表のない彼女を、俺が汚しているようで、気が咎めていた。
 リノアは控室の窓辺に歩み寄り、白い窓枠に手を置いて、光の射す中庭を眺めた。
「でも、ちょっとは自信もあったんだよ。だって、スコールはわたしを好きで、愛してくれてて…。二人で、他の誰とも出来ないような経験だってたくさんして。上手く行くって思ってた。…サイファーが戻ってくるまでは」
「…俺には、未だに分からないんだ。リノアが何であんなに不安がったのかも、どうして…その通りになったのかも」
 心の中の困惑をそのまま打ち明けると、リノアはこちらを向いて、スコールって、ほんっとスコールだよね、と訳の分からないことを言って笑った。
「初めから、嫌な予感がしてたの。スコールを盗られちゃうんじゃないかって。だってスコールの心は、わたしのものになったわけじゃなかったから」
「…」
 そんなことはない。俺は…リノアを愛していた。失いたくなかった。
 恋してないなんて、思いたくなかった。
「だけど、あきらめきれなかったの。スコールが、あと一歩のとこで、恋に落ちなければ…落ちないうちに、もうわたしの!って正式に、世界に向けて宣言しちゃえば、間に合うんじゃないかって思ってたの。卑怯だよね」
「リノアは何も悪くない。俺が…リノアを裏切ったんだ」
 卑怯だったのは俺なのに、リノアは悲しそうに首を振った。
「ねえ、スコール。これだけは信じて。…わたし、スコールのこと、絶対に幸せにするつもりだった」
「俺…リノアと居て幸せだった」
 どうして俺は…このリノアに恋しなかったのだろう。
 頑張り屋で、素直で、優しくて…とても愛しく思っていて、真実、幸せだったのに。
「でしょ! あとちょっとで逃げ切れたのに。あーもう、切ないなあ!」
 リノアはおどけてドレスの胸元を押さえ、大袈裟にため息をついてから。
「じゃ、行こっか!」
 元気よく、白手袋の拳を振りあげた。

「皆さ~ん! 今日は集まってくれてありがと~! 愛してる~!」
 ぐいぐいと俺の腕を引っ張って廊下を突き進んだリノアは、突き当たりの会場のドアを勢いよく開けるなり、大声で叫んだ。
 身内も友人も…式場の人間も、段取りと全く違う花嫁の登場に唖然として…いったい何が起こったのか分からないようだ。
「でも式は中止~! 中止しま~っす! ごめん!」
 リノアはぴょこんと頭を下げ、ほらスコールも!と手を伸ばして、俺の頭もぐいっと押し下げる。
 会場は…静まりかえった。
 リノアと俺が顔を上げても、皆まだ一様にぽかんとして、棒立ちのままだ。
 親しい人達の、驚いた顔を目の当たりにして、自分の犯した間違いの重大さに心臓が冷えた。
「申し訳ありませんっ!!」
 他に出来ることも無く…俺は大きな声で謝罪し、今度は自分で、深く頭を下げた。
「んでスコール選手はこれにて退場っ!」
「え」
 深々と下げた頭の上から、リノアのきっぱりとした宣言が聞こえて戸惑う。
「んじゃ後は~、リノアちゃんの残念会に移行しまっす! 美味しいご飯とお酒が出ますので!」
 俺が慌てて顔を上げると、彼女はもう俺を会場の扉の外へ両手で押し出そうとする。
「おい、リノア…」
「ほら、スコール、早く帰らなくちゃ。サイファー、どっか行っちゃうかもよ?」
 力任せに押しながら、リノアは俺を小声で脅かしてくる。
「今頃は荷造りしてたりして? わたしのカン、当たるんだからね」
 …確かにそうかもしれない。
 もう俺の顔なんか見たくない、そう思っているだろう。
 思い立ったら即行動、後のことなど知るものか。…サイファーは、確かにそういう男だ。しかし…
「ちょっと、スコール、リノア! 何があったの?」
 会場のざわめきの中から、顔色を変えたキスティスが走り寄って来た。
 心配そうな彼女を、説明は後でわたしがするから、と押しとどめて、リノアは俺を急かす。
「ほら、ぐずぐずしてないの! 今逃がすと、捕まんないかもしれないよ?」
「だが、せめて大佐に一言…」
「うちのパパは逃げないもん。そんなの、後でいいったら!」
 リノアはためらう俺の背中を、思い切り一発、ばあんっっ!!と張り倒した。
「~~~っ!」
 かけ値なしの激痛に、思わずかがんで背中を押さえる俺に、リノアは顔を寄せてきて。
 はっとするほど、真剣な口調で囁いた。
「早く行って、スコール。じゃないと、わたしが我慢する意味がなくなっちゃう。ね?」



2012.5.11 / 一発逆転。*2 / to be continued …

 ここまで読んでくださった方。本当にありがとうございます。こんなの書いていいのかな~…とか思いつつ書いてしまいました。
 なお、結婚式の衣装は管理人の趣味により、新郎新婦とも、しきたりからかなり外れたものになっておりますが、そこはひとつ異世界ということで、なにとぞご了解くださいませ。
 次回、ようやく最終回です!

前回に戻る。 / Textに戻る。 / 続きも読んで遣わす。