電子ロックを解除してリビングに足を踏み入れると、魔女の予言通りの光景だった。
ラグやソファの上に、衣類をはじめとした身の回りの雑貨が散らばっている。
床に広げたスーツケースに、まだ礼服姿のサイファーがかがみこんでいた。
作業に熱中する余り、俺が入ってきたのにも気が付いていないようだ。
「…あんた、何してるんだ?」
「荷造り。…って、お前こそ何してるんだよ!? 式は!?」
サイファーは事務的に答えた後、俺がここに居る意味に気づいたらしく、まとめかけた荷物から跳ねるように身を起こした。
「…中止になった」
俺がぼそりと答えると、サイファーは信じられない、と言ったふうに、しばらく俺を見つめた。
「…マジでか?」
眉間にしわを刻み、苦々しい表情で確認してくる。
「ああ」
俺の返事に、サイファーは長いため息をついた。
そして、乱暴に自分の服をどけてソファに腰を落とし、ポケットから煙草とライターを取り出した。
一本をくわえて、火を付けて深く吸いこんだ後、ひとつ煙を吐いて、やがて静かに尋ねてきた。
「…何で?」
「首になった」
俺も正直一本吸いたい気分だったが、我慢してカウンターに腰を預け、サイファーを見下ろす。
しばらく、お互い無言だった。
「…どうして」
ようやく、サイファーが再び顔を上げた。
俺はどう答えたものか迷い、しかし、他に答えようがなく、重い口を開いた。
「…れたから」
「なんだって?」
聞きとれない俺の返事に苛ついて、サイファーが顔をしかめる。
俺は捨て鉢になって、彼と視線を合わせないようにしつつ、息を吸い込み、はっきりと答えた。
「俺が、あんたに惚れたから」
恐ろしい沈黙が流れた。
さっき、控室で突き飛ばされたときの、冷やかな眼差しが目に焼き付いている。
自分の発言に、彼がどう反応するのか直視する勇気が出ず、そのまま意味無くラグの端を見つめた。
…サイファーはまだ黙っている。
もう、遅過ぎたのかもしれない。
彼の中では、とうに綺麗に始末を付けたものを、俺が台無しにしたのかもしれない。
そのうえ、リノアの優しさに甘えて、あんなふうに置き去りにして…
俺は…自分がこんなにわがままな人間だったなんて、知らなかった。
サイファーは、呆れているだろうか?
まだ黙ったきりだ。
もう、俺とは口もききたく無いのかもしれない。
煙の匂いが…いつもと違う気がする。緊張しているせいだろうか。
視界の端に何かが揺らめき、それにつられて視線を動かした俺は、ぎょっとして叫んだ。
「おい、サイファー、煙草!」
揺らめいたものの正体は化繊のラグから立ち上る煙で、火のついた煙草が…床に転がってる!
「あ? …ああ! やっべえ!」
俺の呼びかけで我に返ったサイファーが、血相を変えてソファから立ち上がる間に、炎が形を成し、みるみるうちに背を伸ばして―――踏み消すサイファーの足を逆に焦がそうとする。
「クソっ、消えねえ!」
呪文が頭の隅をかすめるが、駄目だ、今はジャンクションしていない。
俺はとっさにローテーブルを乗り越え、床に落ちたクッションを両手で掴み、勢いを増す炎に夢中で叩きつけた。
さすがにこれは効いて、どうにか消し止められそうだと踏んだとき、
ビーッ! ビーッ! ビーッ! ビーッ…!
頭上から凄まじい警告音が鳴り響いて、驚いて振り仰ぐと同時に、冷たいものが顔に当たった。
「うわっ、何だこりゃ!?」
直撃を食らったサイファーが悲鳴を上げ、冷水にひるんだ俺も理解が一瞬遅れた。
「…、スプリンクラーだ!」
「これどうやって止めんだよ!?」
ラグの火は消えたものの、騒音と冷水が止まらない。
容赦なく撒き散らされるシャワーを腕で避け、サイファーは俺に怒鳴った。
「確か外の制御弁を閉める…んだが、遠い! 電話してコントロールルームから止めてもらう!」
そうしないとお互いの声が聞こえない。
俺も怒鳴り返して、自室に逃げ込むなりドアを閉じる。
携帯を取り出しながら開いて、中央監視室の番号を叩くと、ワンコールで繋がった。
「こちら、指揮官居室のレオンハートだ。火は消えた。スプリンクラーを止めてくれないか?」
意外と冷静な声が出て、俺って案外見栄張りだな、とずぶ濡れでどうでもいいことを思った。
「了解! 停止します」
ビーッ! ビーッ! ビッ。
ドア越しでも、壁が震えるほど激しく主張していたアラートが、ぱたりと鳴り止んだ。
……。
神経に障っていたものが消えて、戻ってきたあたりまえの静けさが、天の恵みのように感じた。
「…助かった」
心の底から呟くと、監視室は状況を察してか、おずおずと訊いてきた。
「えーっと。片づけに応援を回しますか?」
……俺の頭は、まだ正常に機能していない。
サイファーの煙草が床に落ちた経緯を、対外的に説明出来るようまとめるには、少し時間が必要だ。
「いや、いい。どうしても必要なら改めて頼む。報告は後でこちらからする。…ありがとう」
礼を言って通話を切り、こわごわドアを開けた。
「…………。」
部屋は照明が落ちて、薄暗くなっていた。
辺りは、一面水浸し。
ソファも、ローテーブルも、散らばったクッションも、タイヤほどの丸い焼け焦げの出来たラグも、何もかもびしょびしょに濡れていた。
開けっぱなしだったスーツケースには、浅く水が溜まっている。
「おう。危ねえから、ここだけブレーカー落としたぜ」
キッチンに避難したサイファーが、食器用のふきんで顔を拭きながら出てきたが、それを咎める気力も出ない…。
「…もう駄目だろーな、このパソコン…」
俺は暗澹たる気持ちで、愛用してきたデスクトップと向かい合った。
「…バックアップは?」
「ここんとこ忙しくて…、一ヶ月ぐらいバックデータ取ってない…」
がくりと力が抜けて、俺はソファの上の荷物と水たまりを手のひらで払って、腰を沈めた。
座面も濡れているが、どのみち俺のズボンもたっぷり水を含んでいる。
「お前、ひでー有様だな」
サイファーがランドリーエリアから、乾いたタオルを投げてくれるが、彼とて人のことを言えた格好ではない。
「あんただって。それ、貸衣装じゃ無かったか?」
「そうだ。しかしまあ買い取りだろーな、これじゃ」
サイファーのぼやきを聞きながら、俺もタオルで濡れた顔を拭いた。
PCデスク脇に積み上がった書類をサイファーがつまみあげると、滴がしたたった。
「どうするこれ…あーあ、資料も濡れちまって。つーか、お前、式場の方は?」
「あっちにはリノアが残ってくれてる。明日から、あちこち謝って回らなきゃならない…」
俺はソファに掛けたまま俯いて、肩を落とした。
「…今日、親父さんも来てたんだろ?」
「ラグナのことか?…ああ。しかしまず真っ先にカーウェイ邸に行かないと、と思ってたんだが…とりあえず今日、この部屋をなんとかするのが先決か…」
俺の至らなさのせいだが、ただでさえ気が滅入る状況だというのに、さらなる問題が降ってきて…俺は目の前がリアルに暗くなっていくのを感じる。
「この煙草も全滅だ。お前、一本くらい持ってねえ?」
「止めたときに全部捨てた。あんた、この期に及んでまだここで吸う気か?」
「へいへい、俺が悪うござんした。ったく、煙草なんか吸うもんじゃねーな」
サイファーが軽口を叩いて、駄目になった煙草の箱をごみ箱に放りこむと、中でぱしゃん、と水音がして、思わず顔を見合わせる。
ふっ、とどちらからともなく苦笑が漏れ、俺たちは笑いだしてしまった。
お互い正装で濡れ鼠で。まったく、なんてざまだ。
ひとしきり笑った後、俺は天井を仰いで、これからの作業に思いを巡らせた。
まずあらゆるものの水気を拭きとり、大穴の空いたラグを剥がして、散らばった布の類を洗濯して…電化製品や雑貨を乾かし、故障したものは処分に回し、書類は干して、元データが無いものはコピーを取って…それからPCの買い替えとデータの復元、それからもちろん、始末書だ。炎はラグを焼いて床を焦がし、天井は煤で汚れている。これらをどう報告するのか、場合によってはサイファーと口裏を合わせる必要があるな…彼がガーデンにとどまってくれるなら、という条件付きだけれど。
「はーっ。この後始末つくのか自信無いな。逃げたくなってきた」
ソファに仰け反って、かなり本気の弱音を吐くと、ソファの後ろに立ったサイファーが、背もたれに肘を預け、身を乗り出してきた。
「…なあ。お前……さっきの、マジかよ」
「さっきのって?」
聞き返すと、サイファーは横目で俺を睨んだ。
「…俺に惚れたって、言っただろーが」
俺はひとつ瞬きして目線を外し、ゆっくりソファの背から上体を起こした。
「…本当は、今までに何度か、考えかけたこともあったんだ。もしも…あんたのああいう悪ふざけが、本気だったらって」
なんだか…すごく昔のことを話しているみたいだ。
「…それで?」
背後から、サイファーの低い声が、続きを促す。
「でも…そういう考えが浮かぶ度に、それだけは考えちゃいけない気がして、すぐに打ち消してた」
だって、俺は…リノアの騎士だったから。
「ひでえな。俺はお前に、それを考えて欲しくてやってたのによ」
ぽたりぽたりと、前髪をしずくが伝って落ち、濡れて色の変わった絨毯に吸いこまれていくのを、俺はぼんやりと見つめた。
「俺…リノアのこと、幸せにするつもりだった」
いつも自由で、気持ちを隠さないリノア。
泣いたり、怒ったり、笑ったり…そういう彼女が、自分ひとりの殻に閉じこもっていた俺を容赦なく引っ張って、眩しい外に連れ出してくれた。
生き生きとした彼女と一緒に居るだけで、俺も変われる気がした。
それなのにどうしてこうなったのか、自分でも分からない…。
でも、リノアの方は、ずっと分かっていたみたいだった。
俺がサイファーに、本当はどうしようもなく惹かれていること。
「スコール。…ほんとか? リノアよりも…ほんとに、俺と…」
ソファの後ろから、妙に遠慮がちに腕が回ってくるのが可笑しくて、思わずちょっと笑ってしまった。
「なんだよ。さっきはあんなに勢い良かったのに」
サイファーが俺の濡れた後頭部にキスしてから、ソファ越しに俺を抱き、頭を寄せてくる。
「しかし、冷静に考えるとエラいことになったな」
「俺、まだあんまり冷静に考えたくない。現実と向き合ったが最後、吐きそうだ」
巻き込んだ人間の数を思うと眩暈がする。一体…どうやって説明しよう?
内ポケットからオルゴールのメロディが流れて、俺は我に返った。
「電話。リノアだ…」
濡れた手のまま携帯を開く。
「へえ。防水ってこういうとき便利だな」
サイファーが妙なところで感心するが、そうそう「こういうとき」があってたまるか。
「…リノア?」
「やっほ~スコール!!」
「…」
リノアの明るい声に胸が詰まった。
「どう、王子様つかまえた~?」
「王子様…には見えないけど。とりあえず失踪止めるのは間に合った」
「お~っ、おめでと~っ!!」
屈託ないリノアの声。どうやってるのか見当もつかないが、ぱちぱち拍手のような音まで聞こえる。
「リノア…そっち、どんなだ?」
恐る恐る聞いてみる。
「盛っり上がってるよ~! 最初は一部オジサンたちが深刻な雰囲気だったけど、今はもうヤケクソ?ってかんじで!」
「そうか…ごめんな、リノア…」
きっと皆…リノアが明るく振る舞っているから、気持ちを汲んでくれているのだろう。
「御祝儀みんな返しちゃったから、ここはスコールのおごりだからねっ! *万ギルで済むかな~?って勢いの追加注文いただいてまーす」
「…請求書が怖いな」
茶目っけたっぷりに脅してくる彼女の心遣いに感謝して、俺も調子を合わせる。
「へっへっへ。たっかいシャンパン、ばんばん開けちゃうからね~。こっちは任しといて!
それじゃスコールくん! 報告ーう、待ってるぞー!」
「報告? …何の?」
とりあえず、サイファーを確保したことは、もう伝えたと思うんだが。
ぴんと来ない俺が聞き返すと、リノアはひと際楽しげに声を張り上げた。
「んもーやーねスコールってば! 決まってるでしょ! 初夜よ、初夜!!」
……。
「…は!?」
「詳し~く聞くからねっ。覚悟しとけよ~っ?」
んっふっふ、という艶っぽい含み笑いまで聞こえてくる。
「な、何言って…」
「スコールが話してくんないなら、お相手に聞くもんねっ! んじゃ、頑張ってね~ん! CHU!!」
派手なリップノイズを最後に、電話は切れた。
サイファーが興味深げに覗きこんでくる。
「リノア、なんだって?」
ぼうっとしていた俺は、慌てて携帯を閉じた。
「…何でもない。向こうは盛り上がってるらしい」
「何でもないってことねえだろ、こんなに赤くなって。何言われた?」
そんな場合じゃないのに、頬が熱い。
さっきまでは後始末のことで頭がいっぱいで、この後サイファーとどうなるとか…全然意識して無かったのに。
「何でもないって言ってるだろ! …寒い。シャワー浴びて着替える」
とりあえず、水を吸って重いジャケットを脱ぐと、シャツもところどころまだらに濡れていた。
「待てよ、俺もシャワー使いたい」
立ちあがって寝室のクロゼットへ向かおうとするのに、サイファーに腕を掴まれる。
振り返って睨みつけてやる。
「あんたは後だ。この惨状を見ろ。あんたが禁煙のリビングで煙草なんか吸うからこうなったんだぞ」
「お前が人を驚かすからだろ」
サイファーは悪びれず、にやにや見下ろしてくる。
「それだってそもそも、あんたが突然…あんなことするから」
「あんなことって?」
「…! あんた、分かってるくせにっ」
ぞっとするようなヤラシイ声で訊いてくる…あのキスのことだって、絶対分かってるくせに。
何で俺は、こんな意地の悪い男が好きなんだろう…。
「そりゃ、お前がああでもしない限り、ひとの言うことを信じねえからだろ」
「それだって、あんたの普段の行いのせいじゃないか」
「俺の行いのせいだけじゃねーだろ、どう考えても。…引き分けだな」
笑いながら引き寄せられて、濡れた衣類ごしに、抱きしめられる。
このままじゃ二人とも風邪をひきそうだ。
「…これ引き分けなのか?」
「そ。引き分けだろ」
「そうかな。ドローにしちゃ何か騙されたような…」
釈然としない俺の頬に、サイファーがキスを落として、低く甘い声で囁いてくる。
「引き分けじゃしょうがねえ。…んじゃお約束どおり、一緒に入るか」
「どんなお約束だ!」
抱き込まれた腕を振りほどこうとするけど、頭に血が上って上手くいかない。
着替えを取りに行くこともできず、シャワールームへ引っ張られる…。
「片づけなんて、後にしようぜ」
サイファーの長い指が、俺のタイの留め金を外す。
「そんな…」
「ずいぶん期待されてるみたいだしな。ベッドが無事で良かったぜ」
「…、あんた、電話、聞こえてたんじゃないかっ」
詳し~く聞くからねっ、という電話の声が耳に甦って……。
ああもう…次にリノアに会うとき、いったいどういう顔をしたらいいんだ…。
「あの女、声でけえからな~。ま、そんなに克明に教えてやるつもりはねえけど」
「ちょ、サイファー、待てっ。そんな場合か!?」
何とか体を離そうとするが、狭いシャワールームでは、すぐに背中が壁にぶつかる。
「俺のほうはずーっと待ってたんだぜ? 大体、お前はいつ気が変わるか分かんねえ奴だからな。今やんなくていつやるんだっつーの」
「そんなこと言ったって…! こら待て!」
身を捩り、シャツの釦に伸びてくる指を振り払うが、サイファーは俺のそんな抵抗も楽しいのか、
くつくつ笑いながら何度でも指を伸ばしてくる。…きりがない。
酷い立ちくらみがして…もしかしたら、もう風邪を引いたのかもしれない。
多分そうだ。意識はぼんやりするし、顔は熱いし。
濡れて前髪が落ちたサイファーが、やたらと格好良く見えるのも…熱のせいに違いない。
「この間リノアにあんなこと言っちまったからな~。たった一回じゃあカッコつかねえよなあ」
「知るかそんなこと! あんたが勝手に言ったんだろーがっ!」
「つれねーこと言うなよ。これから先、長いんだし」
仲良くやろうぜ、スコール。
とうとう俺の手をかいくぐって釦を捕まえたサイファーが、無敵の笑顔で笑う。
昨日までの、どこか笑ってないヤツじゃなくて、本物の、ふてぶてしいサイファーの笑顔。
…もう、認めるよ。
俺は、サイファーのことが…本当は好きだった。初めから、ずっと。
さっきみたいなキスをベッドでされたら、きっと俺は…あんたに何をされても、許してしまうのだろう。
「…終わったら、片づけにこき使ってやるからな」
俺の返事が想定外だったのか、サイファーはあっけにとられたように、瞬きして。
それから、「了解」と笑いながらキスしてきた。
2012.5.25 / 一発逆転。*3/ END