食後のコーヒーに一粒ずつ付いてきたチョコレート。
サイファーは自分の分を取り、すっと手を伸ばして「ほい」と俺のソーサーに入れた。
「…あんた、甘いもの嫌いなのか?」
「別に嫌いじゃねえけど」
「んじゃ、何で」
「いいから食えよ」
困惑しながら、とりあえず自分の分を口に入れた。
(あ…)
オレンジの果皮の香り。
「美味いか?」
「…ああ」
素直に頷いた。
「お前、昔それが特に好きだったんだ。覚えてなくても、懐かしいかと思ってよ」
…そうか。俺は、サイファーとこの店に来たことがあるんだな。
気づくのが遅すぎたぐらいだ。
「ほんとにもらっていいのか?」
美味しく感じられただけ、サイファーも本当は食べたいんじゃないだろうかと思って迷う。
「たかだかチョコひとつで遠慮すんじゃねーよ。そもそもお前の奢りだろ?」
「そう言えばそうだな」
何となく可笑しくなって、二人して笑った。
エスプレッソが胃に落ちて、ぽわりとそこが温かくなる。
「なんか、不思議だ」
気づいたら、思ったことがそのまま、口から零れていた。
「何が?」
「キスティスから、あんたは会ってくれないんじゃないかって言われてた」
「へえ」
俺はたぶん、事実少し酔っているんだろう。
頬杖をついたサイファーの緑の目が、妙に優しげに見える。
「今日…本当は、最初に謝るつもりだったんだが、タイミングを逃してしまって。監視官を途中で辞めるなんて無責任なことをして、済まなかった」
サイファーは、別段気を悪くしたふうもなく、俺の遅すぎる謝罪を黙って聞いている。
「…絶交したらしいって聞いてたから、あんたの気が変わらないうちにと思って、今日だなんて言ってしまったんだ」
「ま、驚いたけどな。…最初は、聞き間違いかと思ったぜ」
彼はコーヒーを啜りながら、ちいさく苦笑した。
「急な話で、申し訳なかった。何か予定があったんじゃないのか?」
金曜日の夜だ。良く考えたら、恋人が居ればデートの約束があるのが普通だろう。
「今更何を気にしてる。お前、どうせ今日を逃したら当分出て来れねえんだろ」
「…そうだ。クリスマスからずっと、このことばかり気になっていたのに、時間が取れなくて…」
もともと折り合いが悪くて、監視官の任務を勝手に途中で放り出してエスタに渡った俺、何年も音信不通で、しかも自分のことを何一つ覚えていない俺のために、彼は時間を作ってくれた。
俺は忘れてしまったのに、俺のことを覚えていてくれた。
記憶ごと過去を失くしてしまったと思っていたのに、思いがけず楽しいひとときを過ごせた。
一晩でこんなに笑ったことなんて、ちょっと思いだせないほどだった。
「だから、…感謝してる。会ってくれてありがとう、サイファー」
男同士でこういう台詞は照れくさかったけれど、酔いに乗っかって、本心から言った。
「やっと呼んだな」
「え?」
「…俺の名前」
サイファーは、懐かしそうに緑の目を細めて、テーブルの向こうから俺を見つめてきた。
口元に浮かぶ、どこか寂しげな微笑み。
(Seifer)
…Sの頭文字。
どきん、と心臓が大きく跳ねた。
あとのお楽しみ、と先延ばしにされた答え。
サイファー以外、誰も知らない秘密の恋人。
硬直している自分に気づき、慌てて瞬きして、エスプレッソのカップに視線を落とす。
何もかも俺好みの食事。
それとなく匂わされる、かつて親密だった雰囲気。
意味ありげな眼差し。
何よりも俺自身が、出会って数時間の、この覚えのない人物の魅力に引き込まれていること…。
脈がどんどん速くなる。…まずい。俺、動揺しすぎだ。
「そろそろ判ったか? お前の質問の答え」
多分…俺が思ってるそれで合っているんだろうが、口にするにはなかなか勇気のいる答えだ。
しかし、ここではぐらかすと余計に変だ。旅の恥はかき捨てって言うじゃないか。
乾いた喉に、コーヒーを呑みこんでから顔を上げ、俺は意を決して尋ねた。
「あの指輪は、もしかして…あんたがくれたのか?」
「そうだ、スコール。俺が19のときに、お前に渡した指輪だ。…あれからもう、7年経つんだな」
サイファーは、俺をまっすぐに見て、はっきりと答えた。
やっぱり、そうなのか…。
覚悟して聞いたはずなのに、それなりに胸にずしりとした衝撃があった。
まさか自分に男性の恋人が居たとは思っていなかった…。
確かにそれほど、女好きというわけではない。
どちらかといえばそういった事柄全般に渡ってめんどくさがりの自覚はあるが、自分のノーマルな好みを疑ったことなどなかった。
ここ数年で、何回か同性に言い寄られたときも、迷惑だな、と思っただけだったし…。
「さっき見せられたときは内心驚いたぜ。お前、もうとっくに捨てたと思ってたからよ」
「…俺、無神経なことした」
「そうだな。しかしまあ、覚えてねえんだからしょうがねえだろ」
サイファーは案外さばさばとした調子でその問題を片づけて、煙草の箱を取りだした。
目で「吸っていいか?」と訊き、俺が頷くと、抜いた一本をくわえ、慣れた手つきでマッチを擦る。
煙を宙に長く吐き、サイファーは俺に向き直った。
「納得したか?日記のデータは、多分、俺に関係する部分を、お前が自分で消したんだろう。だから俺のこと、きれいさっぱり忘れちまったんだな」
そうじゃないかと、俺も途中から思っていた。
だって、不自然すぎる。この男と一緒に暮らして、彼のことをなんにも書かないなんて。
残り少ないコーヒーを見つめ、迷いながら口を開いた。
「聞いてもいいか?」
「何だ?」
「どうして、別れたんだ?」
本当は、聞いてはいけないことと分かっていながら、どうしても、それが気になった。
サイファーの目が、一瞬、驚いたように見開かれ…それから、煙草を挟んだ手を口元から外して、灰皿の上へ伸ばした。
「…聞きたいか?」
サイファーは目を伏せて、灰皿に煙草の灰を落とす。
その静かな口調に、俺は質問したことを後悔した。
呆れるよな。まともな神経じゃ聞けないことだ。
不躾な問いを引っこめて謝ろうとした瞬間、サイファーは、意外にもにやりと笑いかけてきた。
「どうやって付き合い始めて、どんなふうに付き合ってて…」
ゆっくりと思わせぶりに言葉を切って、ひとくち煙草を吸った。
それから、恐ろしく魅惑的な流し眼を寄こして、煙を吐きながら、誘うように訊いてくる。
「どうして別れたか、聞きたいか?」
そんなふうに言われて、気にならない訳がない。
「……出来れば聞きたい」
抑えめに表現したが、サイファーがふっと笑いを漏らしたところをみると、筒抜けのようだ。
ポーカーフェイスは得意の筈なのに、今日は全く上手く行かない。
どうしても聞きたい、という気持ちが隠せない…。
「こっから先は別料金だな」
「別料金?」
「俺の部屋に来るなら、続きを聞かせてやるよ。…どうする?」
う。
さっきからなるべくそういうことを考えないようにしていたけど。
これはやっぱりそういう意味なんだろうな…。
本人を目の前にして、想像するのは抵抗がある。
しかも年下の華奢な青年ならまだしも、年上のいかにも頑丈そうな大男だ。
そこから導き出される推論に、頭がくらくらする。
「…」
「んな困った顔すんなよ。無理にとは言わねえ。別に、これまで忘れてて支障無かったんだろ?」
サイファーは憎たらしいほど落ち着き払って、グリーンの眼を細める。
「…」
それは、確かにそうだけど…。
俺は気持ちのやり場がなくて、コーヒーカップとサイファーの間に視線を泳がせた。
緊張で口が渇いてしまって、エスプレッソをもう一口飲みたいが、カップの中身が無くなったら、帰らなくちゃいけない…。
「エスタ行き、まだ二本ある。今行けば間に合うぜ?」
サイファーは右腕のごつい腕時計を覗いて、奇妙に優しく、俺に帰るように促してくる。
そう、問題は…そのくらくらする推察が、目の前の男が相手なら、あり得たかもしれない…と、どこか納得してしまう自分自身だった。
「…ここじゃ、駄目なのか」
我ながら情けない声で尋ねるが、サイファーの返事はつれなかった。
「駄目だ。…なあ、スコール。無理せず帰れよ。大体わかっただろ。この先、大した話は無い。それでも聞きたいって言うなら、うちに来な」
「それなら、ここで話してくれたって…」
「それは駄目だ。…もう分かってるだろうと思うが、お前の記憶の欠落は、事故じゃねえ。お前自身が仕組んだことだ」
「…」
…やっぱり、そうなのか。
俺は日記だけじゃなく、自分の記憶を改ざんしたのか。
そこまでして、俺は彼を忘れる必要があったのか。
ジャケットの内ポケットにある、指輪のことを思った。
それなのに、これは捨てられなかったのか。…やってることが滅茶苦茶だな、俺。
「ま、よく考えろ。悪いが、少し外すぜ」
サイファーは吸いさしを灰皿に押し付けると、席を立った。
場の張り詰めた空気がほどけて、ひとり残された俺は、長いため息をついた。
でも、問題が解決したわけじゃない。サイファーが帰ってくるまでに、心を決めなきゃならない。
白いテーブルクロスに浮かんだ、微かな模様を意味無く目で追いながら、俺は考えを巡らす。
部屋へついていけば、どうなるか…。
ほのめかされるニュアンスから察するに、あまり考えたくないけど、そういうことなんだろう…。
自分の顔に、熱が集まってくるのがわかる。
駄目だ。考えられない。考えると正気では居られない気がする。
俺…どうかしてるな。
あんたの言うとおり、帰った方が賢明みたいだ。…いつもの自分なら、とっくにそう言っている。
すでに目的は達した。俺は…俺のような子どもが居ないかどうかを確かめたかっただけだ。
それに、もうおおよその見当は付いている。
どうやって付き合い始めたかは分からないが、多分、俺がエスタへ行くことになって別れたんだろう。
原因は他にあったかもしれないが、…どちらかの裏切りだとは、思いたくない。
ともかく、俺は指輪を物入れの奥にしまいこみ、日記から彼を削除して、記憶まで傷つけた。
終わった話なんだ。
それなのに…理屈では抑えられない気持ちが膨れ上がってくる。
記憶のあった頃も、そうだったのだろう。
そうでなければ、そもそも記憶を消す必要なんかない。
この指輪だって、とっくに捨てられていたはずだ。
未練がましく「後日処分」だなんて…、ほんとに、俺らしくもないやり方だった。
今日会ったばかりも同然なのに、こんなに強く惹かれている。
このまま帰りたくない。
彼の話を、もっと聞きたい。
理屈では、帰るべきだとはっきり結論が出ているのに。
「で、どうする?」
テーブルに戻ってきたサイファーが、ゆったりと微笑みながら訊いてくる。
「…」
情けないことに、俺はまだ迷っていた。
帰ったほうがいいことは分かっている。というか、帰らないなんて、あり得ない。
それなのに、どうしても…続きが気になる。
だからと言って、「今日は帰る、また会って欲しい」なんて虫の良いこと頼めるか?
それにエスタに帰ってしまったら最後、その気があると分かっている相手に会いに来るなんて…恥ずかしくてとても出来ない気がする。
「車で来てるんだ。港まで送ってやるよ。最終便なら間に合うだろ」
「いや、……その、」
俺の沈黙の理由を知ってか知らずか、サイファーが逆の提案をしてきて。
思わず、否定の言葉が口をついて出た。
…こうなるともう、続けるしかない。
「…俺は知りたい。どんなふうだったのか」
言ってしまった…。
まるで何もない空間に、足を踏み出すような心地だった。
「行先は、俺の部屋で良いんだな?…じゃ、行くか」
俺の答えが分かっていたみたいに、サイファーはあっさりと立ち上がった。
俺は支払いをしようと、テーブルの下を覗いたが、いつの間にか、伝票が無くなっている。
「え、チェックは?」
「済ませた」
そう言って俺のコートをぽいと放ってよこし、すたすたと歩き出す背中を、慌てて追いかけた。
「話が違う。俺が奢るんじゃなかったのかっ」
路地を出たところにあったパーキングで、ひときわ大きい四駆に向かうサイファーに問い質すと、
彼は俺を振り返って、しれっと答えた。
「そういうことにしとかねえと、お前、遠慮してロクに食わねえだろ」
「…!」
最初からそのつもりだったのか。
何もかも見透かされているようで、かあっと頬に血が上る。
こんなの…アンフェアだ。
「乗れよ」
低く笑って、サイファーが助手席の扉を親指で示す。
「これじゃ俺の気が済まない。払わせてくれ」
彼の隣に乗り込んで、シートベルトを掛けながら俺は食い下がる。
だって、用があったのは俺のほうだ。
「どうせ大した金額じゃねえんだ、いいだろ」
彼は応じる気はないらしく、軽くいなされる。
そんなこと言われても。
ワインも追加してしまったし、結局、俺の好きなものばかり頼んだってことじゃないか。
「せめて半分だけでも」
「お前の方が金持ちなのはわかってるけど、ここは俺の面子を立てろっつうの」
諦めきれずに言い募る俺に、サイファーは…どきりとするような笑顔を向けてくる。
「惚れてた奴に久しぶりに会って、いい顔してえんだよ。わかんねーのか?」
「…」
俺は黙って、助手席の窓の外へ視線を向けた。
上手い返事なんか思いつかない。
キーが回って、エンジンの掛る音がした。
車が走りだしても、そのまま、窓の外の夜景を見つめる振りを続けた。
今自分がどんな顔をしてるのか、自分でも分からない。
そんな顔を見せたくなかった。
2011.12.28 / One and Only * 6 / to be continued …