Lovefool : Squall : 9

 保健室から管理棟の部屋に戻り、サイファーが先にシャワーを使った。
 続いて俺も汗を洗い流し、着替えてシャワールームから出ると、サイファーはテーブルにプラスチックパックを並べているところだった。
「食堂行ってきたぜ。こっちがお前用だってよ」
 テイクアウト用のパッケージの、サイファーの分には普通の食事、俺の分にはリゾットが入っている。
「あー、腹減った。早く食おうぜ」
 サイファーは蓋を開けて匂いを嗅ぐと、待ちきれない様子でフォークやスプーンをセットし始めた。
「そう言えば、このテーブル…」
 キッチンに置かれた、見慣れない小さなダイニングテーブル。
 朝、起きて部屋を見回した時から、存在には気づいていた。
「ああ…、これ、一年前は無かったか」
 ひとりでこの部屋に住んでいた頃、俺はいつもカウンターで食事を取っていた。
「あんたが買ったのか?」
「まぁな。去年の…夏前ぐらいか。卒業する奴らが合同で不用品のセールやってて、売れ残ってたんだ」
「…そうだろうな」
 一人部屋なら、普通は必要ないだろうし。
「700ギルとかそこらで買い叩いたんだよな、懐かしーぜ」とサイファーは笑ってから、「水でいいよな?」と俺の分のグラスもテーブルに置いた。
 人目が無いせいか、昼間、食堂で向かい合ったときより、すんなり席に着けた。
 サイファーと同室で暮らし始めて、食事の時間が重なると、カウンターで並んだり、ローテーブルとカウンターで別々に食べたりしていたが…なんだか少し妙な感じだな、と俺も内心で思っていた。
 セッティングが終わって、サイファーは「んじゃ、食うか」と差し向かいで食事を始めた。
 怪我した左腕を気にするふうでもない、サイファーの旺盛な食欲を見て、俺もリゾットを口に運ぶ。
 トマトベースの味付けで、玉ねぎとマッシュルームが入っている。まだ温かかった。
「そういや、これ買ってからだな。だんだん一緒にメシ食うようになったのも」
「…そのときは、…その、まだ…付き合ってなかったのか」
「あ? …ああ、そーだな」
 サイファーは一瞬、虚を突かれたような顔をしてから、「あんまり何回も付き合いなおしてっと、訳が分かんなくなってきちまうぜ」と首を捻って苦笑した。
 俺はしばらく考えて、やはり尋ねてみることにした。
「…その、そもそも…、なんで、付き合い始めたんだ?」
 腹を括って切り出すと、サイファーは口に運びかけたフォークを止めて、ニヤリと笑った。
「とうとう聞く気になったか?」
「…ずっと避けて通るわけにもいかないだろ」
 今日一日、その手の話題が出るたびに味わった、居心地悪い気分を思い出す。
 まるで…歯医者の診療台に座っているみたいだ。この際、今日中に済ませてしまいたい。
 サイファーは楽しげに目を細め、ゆっくりと、思い出すように話し始めた。
「最初は、まあ、…なんつーか。勘違いの一種だな」
「…勘違い?」
 予想外の単語に、俺は思わず訊き返した。
「お前がリノアと別れて、あんまりしょげてっからよ。お前に気があるフリして、からかってやってたんだ。そうしたら、お前がそれを真に受けて、だんだん俺のこと変に意識するようになっちまってな」
「…………」
 なんだそれ…。
 リゾットの表面に目を落とし、そこにスプーンを半分突っ込んだまま、身動き出来なくなる。
 顔があげられない。
 覚悟した以上に恥ずかしい内容に…気が遠くなってくる。
 同時に、そんな勘違いをさせるような、不適切な励まし方をしたサイファーに対して、怒りが湧いた。
「それは…あんたの態度に問題があったんじゃないのか」
「お前からすりゃそーだろな。…だけど、そうなってみると、俺の方もまぁ…悪い気しなくてよ」
「呆れるな。節操無さ過ぎだろ」
「しょうがねーだろ。どうもヤバいな、って気が付いたときにゃもう、お互い惚れちまってたんだから」
 サイファーは抜け抜けと言いきって、グラスの水を飲んだ。
「…」
 俺は黙って、今の話を頭の中で反芻した。…ありえない話だ、昨日ならそう否定しただろう。
「後で、俺が最初にちょっかい掛けてたのが冗談だったって分かって、お前、すんげー怒って」
 思い出し笑いをしてみせるサイファーに、イラッと殺意を覚えた。
「そうなるだろうな、当然」
「でもま、どのみち、もう手遅れでよ。結局付き合うことになった」
 そう言って、「なんか質問あるか?」とサイファーは頬杖をついて俺を見た。
「全体的に…、ものすごく…成り行きだな」
 俺は、正直な感想を述べた。
「そう言われりゃ…そうとしか言いようがねえな。何、お前、もっとロマンティックなのを期待してたか?」
「そんな訳ないだろ。想像もつかなかったから、訊いたんだ」
 否定しながら、少し嘘な気がした。
 少なくとも…俺は心の底では、自分が先にサイファーを好きになったと思っていなかったらしい。
 そんなことを悔しがるのもみっともないが、何だか…妙に悔しい。
「…食欲、無くなっちまったか?」
「…いや、大丈夫だ」
 こんな気持ちを見抜かれたら、それこそ顔を合わせていられない。
 俺は気を取り直して、皿に残った赤いリゾットをスプーンで掬い上げた。
 おおいに納得いかない部分もあるが、「ある日唐突に、どちらかがどちらかに恋に落ちて」なんて、別人同士みたいな話を聞かされるより、まだ理解出来る気がした。
 一年後のサイファーは、紛れもなくサイファーで…俺も確かに俺なわけだ。

 食事を終えて、俺が片づけをしている最中に、カウンターに移ったサイファーが不意に言った。
「そういやお前、昔はトマト苦手だったよな」
「…そうだったか?」
 …記憶にない。今はトマトは別に嫌いじゃないし、昔からそうだとばかり思っていた。
「お前って、本当に何でも忘れっちまうのな。こうやって…」
 シンクとカウンターを挟んで目を合わせたサイファーは、あきらめたような顔で笑った。
「昨日記憶を失くして、今日俺と勝負して、何かの話をして、一緒にメシ食ったってまた、そのうち消えちまう。テーブルごと、無かったのと同じになっちまうんだ」
 それは事実だった。そして、それが事実だということが、俺の胸をぐさりと刺した。
「なあ、スコール。だから、その傷は消すなよ」
 俺の額に視線を投げて、口元で微笑むサイファーを見て、俺は片づけをやめた。
 キッチンスペースから出て近づく俺に、サイファーは顔を曇らせる。
「…どうした? んな顔すんなよ。悪かったな、恨みがましーこと言っちまって」
 俺は隣のスツールに腰をおろし、サイファーの左腕の包帯を眺めた。
「…俺、三回目なんだっけな。記憶失くすの」
「ああ」
 今日俺が付けた、サイファーのこの腕の傷は、いずれ消えてしまうだろう。
 サイファーは、俺が記憶を失くす理由を「どうでもいいと思っているから」と言った。
 …今日という一日を、俺はどうでもいいと思っているだろうか?
「あんただけじゃなく、他の皆もそうだけど…俺のために使ってくれた時間だって、あったはずだ。俺は、そういうのを全部、忘れてしまったんだろ?」
「…まあな。その場の状況判断で、お前は他のリスクより、自分の記憶を失うリスクを取ったってことだ」
「…俺、今度こそちゃんと気を付けるつもりだ。そんなリスク、取らなくてもいいように」
「そうだな。センセやチキン野郎がくどくど言ってんのは、そういうことだな」
 俺の遅すぎる決意に、サイファーは静かな口調で同意した。
 それでも、胸の中に生まれた苦い思いは無くならない。
 これは何だろう、と思ってから、…ああ、俺は後悔してるんだ、と分った。
「…こうやって飛んだ記憶って、…もう、戻らないんだろうか」
「あ?」
 昔、ゆるやかに失くしていった思い出は、昔の仲間と話すことで、少しだけ戻ってきた。
 今度の事故みたいなケースは、違うんだろうか。もう、俺の頭のどこにも、何にも残っていないのか。
「俺…思い出せない。…だけど、思い出したい」
 カウンターに両肘をつき、俺は頭を抱えた。
 指先で頭蓋骨を押さえ、無駄と知りつつ、意識を脳に集中してみる。
「…スコール?」
「思い出したいんだ。記憶を失くす前まで…何を考えて、あんたと、どんな話をしてたのか」
 サイファーは、しばらく黙った。
「…どうしたんだよ。だって、お前…、俺と付き合ってたなんて、嫌なんだろ?」
 俺は今回の事故の前に、既に二度記憶を失ったという話だった。
 その二度とも、あんたに言わなかったのか。
 あんたと付き合っていたことを、思い出したいって…言わなかったんだな。
「…最初は、驚いたけど…、今は…少し違う気がする」
 自分の声がわずかに震えている。
 俺は、どうかしてしまったんだろうか。
 一度も感じたことがないような気持ちを、俺は、サイファーに打ち明けようとしているんだ。
「…スコール」
「…あんたは、もううんざりか?」
「何が」
「…俺と付き合うの。願い下げだって、言ってたな。そう言えば」
「…」
「俺、ひどい奴だ。…何にも思い出せないんだ」
 俺とあんたが付き合うなんて、…すんなり運ぶ訳が無い。
 付き合い始めてからだって、きっと…いろんなことがあったはずだ。
 俺はそれを、何もかも忘れてしまった。
「スコール…もういい。そこまで気にすんな」
 サイファーは意外そうに眉をひそめ、俺を憐れむように、そっと肩に触れてきた。
 出来るだろうか? と一瞬考え、…思い切って彼の首に手を伸ばして、引き寄せる。
「本当に、悪いと思ってる。ごめん、サイファー」
 俺はそう詫びて、サイファーの目を見ないように目を閉じ…その頬にキスした。
 目を開けると、サイファーはひどく驚いた顔をしていた。
 何度もぱちぱち瞬きして、まるで、見たこと無い生き物を見るような目で俺を見つめている。
 何が起こったのか信じられず、言葉も出ないみたいだった。
 さっき、噴水前でも俺の言葉に戸惑った顔をしていたが、その比じゃない。
 ほとんど驚愕、って表情だ。
 …そこまで、変だったか?
 そりゃ、唐突だったのは認めるが、いくらなんでも、驚きすぎじゃないか。
 言っちゃなんだが、モルボルにでもキスされたみたいな…。
 恐ろしい不安が、胸に広がる。
 俺……何か、間違ったのか? だって…恋人同士なんだろ?
 リノアに、恋人に謝るときには、こういうふうにするものだって教わったのに。
(やっぱり、やめておけば良かった…)
 激しい後悔の渦に呑み込まれかかった、そのとき。
 不意に真顔になったサイファーがいきなり、俺の顔をがしっと両手で固定した。
(え…、)
 逃げる間も無かった。
 サイファーは怖いぐらい真剣な顔を傾けて、その唇を…躊躇なく、俺の唇に押し付けた。
(うわーーーーーっ!!)
 硬直して目を見開いた俺は、心の中で絶叫した。
 そりゃ、さっきは俺のほうからキスしたけど…、アレとコレじゃ…訳が違うだろ!
 混乱した俺が、何とか手を突っ張って体を引き離そうとすると、目を閉じたサイファーの片手が下りて来て、俺の手をぎゅっと掴んだ。
 その温かさと、訴えるような握り方に、ハッと気付いた。
 …そうだ。
 こんなこと、普通のことだったはずなんだ。
 だって、サイファーは俺を好きで……俺も、サイファーを好きだったんだから。
 俺が忘れてしまわなければ、トラビアから帰って来て…すぐにこうするはずだったんだ。
 俺たちは、残業が終わるのが待てないほど、…愛し合ってたんだから。
 …俺は、抗うのをやめた。
 間近に見るサイファーの瞼は、今まで気が付かなかったけれど、金色の睫毛がとても綺麗だった。
 そのまま、片手をサイファーに預けて、俺も目を閉じてみる。
 ドキドキして、心臓が割れそうだ。
 重なっている唇は、とても柔らかくて…
 …どうしよう。
 全然、気持ち悪くない…。
 触れ合った部分から、重ねなおされるたびに特別な感覚が生まれて、意識が甘く霞む。
 耳も頬も、じいんと赤くなるのがわかった。

 しずかなキスは、終わるかと思うとまた触れてきて、思ったよりもずっと、長く続いた。
 最後に唇が離れると、一瞬、緑の目と視線がぶつかり、俺はすぐに目をそらした。
 どうしたらいいんだ…。
 とにかく、猛烈に恥ずかしい。
「…悪かった。びっくりさせちまったな」
 サイファーの態度もどこかぎこちなく、俺の肩から、ゆっくりと手を外した。
「…いい。俺の方も、突然だったから…あんたこそ、驚いただろ」
 俯いてぼそぼそと話すが、何故か息が苦しい。
「俺…もう寝る。おやすみっ」
 目を合わせないまま会話を終わらせ、個室に逃げ込もうと背を向ける。
 開いたスライドドアを抜けて、ほっと息を抜いた瞬間、
「スコール、待てよ」
「え」
 ドアが閉まる寸前に、後ろから片手を掴んで引きとめられた。
 待てって…、これ以上、何をするんだ。
 引き出しの中で見つけた良からぬものが頭をよぎり、心臓が止まりそうになる。
「いや、その……違う、そうじゃねえんだ」
 振り返った俺の引きつった顔に、サイファーは困ったように言葉を濁して、掴んだ手を離した。
 なんだ。違うのか。
「キス、ありがとな。…それだけだ。おやすみ」
 サイファーはいつになく照れくさそうに笑って、スライドドアを向こうから閉じた。
 シュン、と閉まったドアの表面を見つめて、はーーーっ、と長いため息が出た。
 そのまま身体の向きを変えると、ふらふらとベッドに倒れ込んだ。
 襲われるのかと思った…。
 うつ伏せたベッドの上で、まだ心臓が暴れている。
 馬鹿みたいだな、俺。意識しすぎだ。
 確かにさっきのサイファーは強引だったが…先に俺が断りも無く、頬にキスしたからじゃないか。
 サイファーは俺が思ってたよりも、ずっと紳士なんだ。
 キスだって…あんなに長かったのに、ただ重ねるだけだった。
 手首を掴まれたぐらいで、変なこと考えた俺のほうが変だ。
 サイファーのあの反応は、こっちが変なこと考えたのが分かったんだろうな…。
 そう思うと、心底いたたまれなくなってくる。
 駄目だ。
 ますます心臓がうるさくなってきた。
 俺、やっぱりおかしい。
 もう寝る、なんて宣言したけど、ちっとも眠くない。

 寝がえりをうって、仰向けに転がった。
 天井を眺めても、…やっぱりサイファーのことを考えてしまう。
 さっきのキス、嫌じゃ無かったな…。
 サイファーにとっては、もう何度もしていて、普通のことなんだろうけど。
 記憶のない俺にとっては、まったく普通のことなんかじゃない。
 唇の感触を思い出すと、酔ったように思考が痺れてしまう…。
 俺…ホントに頭がおかしくなったみたいだ…。
 あんなふうに逃げだしてきたくせに、サイファーのことが気になって仕方ない。
 ベッドに寝転がった耳に、シュン、とスライドドアが開く音が聞こえた。
 サイファーが、リビングから隣の個室に入った音だ。
 身体が自然と横向きになって、正面に壁が来る。
 サイファーの部屋と俺の部屋は、この壁一枚で仕切られている。
 この壁の向こうに、サイファーが居る。
 今、何をしてるんだろう。…何を考えてるんだろう。
 ここまで気になるなら、本当は様子を見に行くことだって出来る。
 立場的に俺は彼の監視官で、物理的には、ドアを二枚開ければ済むことだ。
 でも、何て言えばいい?
 どうしてもあんたのことが気になって…なんて、どう考えても正気じゃなく聞こえる。
 他に上手い理由も思いつかないし…。

 俺は再びため息をついて、天井と向かい合った。
 かつてのリノアの主張が、今、初めて意味を持って俺に訴えかけてくる。
 俺はリノアを好きだった。
 可愛いと思っていたし、大切にしたいと思っていた。
 でも、あれは…恋じゃなかった。
 リノアの言うとおりだった。
 俺はキスという行為は、単に相手への愛情を表現する方法のひとつだと思ってた。
 挨拶とか、好意のしるしとか、そういう儀礼の類だと思ってた。
 それなのに…サイファーとしたキスは、全然別のものだった。
 当時、リノアがどうしてあんなにキスをねだってくるのか不思議だったけれど、今なら分かるような気がするのが恐ろしい…。
 俺は今、二枚のドアを開けて、もう一度顔を見て、何でもいいから…もう少し話したい。
 そして、それよりももっと…、さっきみたいに、キスしたいって思ってるんだ…。

 ダメだ。自分が信じられない。
 これって、本当に夢じゃないんだろうか。
 俺の生きてきた世界と地続きなんだろうか。
 俺は本当に本物の俺なんだろうか。
 なんにも、思い出したわけじゃないのに。
 今日一日、恋人だったのかもしれないと思いながら、一緒に過ごしただけなのに…。
 脳の何処かにある記憶が、俺の感情を動かしてるんだろうか…。
 俺は途方に暮れてうつ伏せ、枕に顔を埋めた。
 昨日聞いた時には、悪い冗談だとしか思えなかった。
 忘れていたが…今日の昼には、「別れ話」をしなきゃいけないと思っていたはずだ。

 もし、サイファーにこの気持ちがバレたら…と思うだけで、クラクラする。
 それに、もしそうなったら今度こそ、その引き出しに入ってるものを使用する羽目になるんだろうか…。
 …うわ。やめてくれ。
 俺は自分の考えについていけなくなって、ぎゅうと目をつぶった。
 無理だ。
 無理、無理無理無理。
 想像するのも無理だ。
 だけど、正直、今の俺は…、もしもサイファーに強引に迫られたら、拒めないような気がする…。
 …それでいいのかもしれない、と心の隅で思った。
 サイファーは、この俺のベッドで眠ったことがあるんだ。たぶん、何度も。
 それが普通のことだったんだ。
 とうとうそう思えるようになって、心細さに眩暈を覚える。
 俺はルームライトを消して、暗闇で体を丸める。
 まったく眠気がやって来ないが、とにかく、これ以上考えたくなかった。
 たった一日で、ものすごく遠くまで来てしまったみたいだ…。
 どうしたらいいんだろう。
 明日から、どういう顔をしてサイファーに会えばいいんだろう…。



 2013.06.23 / Lovefool : Squall : 9 / to be continued …