Lovefool : Squall : 4

 全てが何かの間違いなんじゃないかと、一縷の望みを託して眠りに就いた翌朝。
 目覚めると、ブラインドの隙間から日が射していた。
 枕元の時計は09:02から09:03に変わるところだった…思ったより遅い時間だ。
 昨日一日、ほとんど眠っていたのにな。
 ふと気付いて、デジタル時計の日付も確認してみる。
 カレンダーの表示は4月の初旬…俺の記憶より、一年と少し先だ。
 つまり、俺は約一年分の記憶が無いってことになる。
 ベッドの上で簡単にストレッチをこなしながら、昨日の出来事を思い返してみる。
 ここで目が覚めて…ベッドサイドにサイファーが居て…。
 肘を上げ、反対側の腕をクロスさせて身体に引きつけ、肩甲骨の周りの筋肉を伸ばし、息を吐く。
 俺はすぐにまた意識を失って…次に気付いたらいつのまにか点滴を受けていて。
 サイファーに「記憶が無い」と伝えると、凄い剣幕で怒鳴られて…

(俺は、お前の恋人だろーが!)

 …思い出しただけで、伸ばしている筋肉がひきつりそうになる。
 一夜明けて…あの悪夢のような「設定」は、まだ続いているのだろうか…。
 ストレッチを終えた俺は、ベッドに腰掛けて、落ちてくる前髪をかきあげた。
 いつもなら、ここでまずは一服するところ。
 特に今朝は、少しでも心の平穏を取り戻すために、是非とも一本吸いたい気分だ。
 だが、それ以上に…このベッドサイドのチェストを開ける気になれない。
 昨日見た、控え目なロゴの透明なチューブは、何も知らなければ洗顔料か何かと思っただろう。
 実際、ガーデンが今の運営体制になったばかりの頃、寮の検査で押収されたソレを初めて見た俺は、「これは何だ?」と訊いて、当のサイファーに大笑いされた。
 あのとき、サイファーは俺の無知を笑いながら「俺もそっちはシュミじゃねえけど」と言っていた。
 それなのに、どうしてこんなことになっているのか…。
 それに、昨日はあまり分からなかったが、それほど切実な喫煙への欲求がないような気がする。
 頭では吸って気持ちを切り替えたいのに、身体の奥から欲する、あの焦りが湧いて来ない…。
 これは…あれか。この一年の間に、俺はとうとう禁煙したということか。
 俺は煙草をあきらめてベッドを降り、見慣れないスリッパを履いた。
 自分のことなのに、分からないことだらけだ。
 一年あれば、人間は…随分と他人になってしまうものなのかもしれない。

 ドアを開け、恐る恐る共有スペースに足を踏み入れた。
 静かだ。
 …サイファーの気配はない。
 辺りを見渡した俺は、リビングのキッチンカウンターの上に、短いメモを見つけた。
「出かける。置いてある食いモンはどれでも食っていい。夕方には戻る」
 そうか、もう部屋には居ないのか。
 顔を合わせないで済んで、正直ほっとする。
「外出するなら使え」、という追伸部分の下に、俺のカードキーが置かれている。
 カードキーを取りあげると、その下に「浮気すんなよ!」と書かれていた…。
「……」
 何とも言えない気分で、サイファーの癖のある筆跡を見つめる。
 俺の現実は、昨日の悪夢の続きで間違いないらしい。
 いや、悪夢と言いきってはサイファーに失礼か…。
 記憶さえ戻れば、俺もこの恐ろしい現実に適応出来るんだろうし。
 適応どころか、もしかしてサイファーに伏して許しを乞わなきゃいけないのかも。
 記憶が戻って欲しいような、欲しくないような…複雑な心境だ…。

 クロゼットの中には、知っている服と知らない服が混ざって吊るされていた。
 何となく、見覚えのあるシャツと黒いボトムを選んでみたものの、かなりくたびれている。
 シャワーを浴びて着替え、歯を磨く段になって、ホルダーに無造作に立てられた二本の歯ブラシに戸惑ったが、片方のブラシが湿っていて、そっちがサイファーのだと分かった。
 グリーン系がサイファーで、ブルー系が俺、という傾向は変わっていないようだ。
 おそらくサイファーが選んだのだろう、強烈なミントの味がするペーストで歯を磨きながら鏡を覗くと、疲れた顔の自分と目が合った。
 一年経った自分の顔は…少し頬が削げたぐらいで、特に変わり映えしないように見える。
 そう言えば、キスティスに、消化にいいものを食えと言われていたな。
 言いつけどおり何か胃に入れた方が良いんだろうが…とてもじゃないが、食欲が湧かない。
 俺は朝食もパスして、部屋を出た。

 * * * * *

 俺とサイファーの相部屋は男子寮ではなく、ガーデンの管理棟にある。
 休日の廊下は、人気がなく、がらんとしていた。
 俺は一年後には、非常事態宣言が解除されて、指揮官の職責から解放されているものと思っていた。
 しかし、キスティスやサイファーの話からすると、いまだに指揮官のポストは存在するようだ。
 となれば、俺は休みが明けたら、ただちに指揮官役を務めなくちゃならない。
 一年後のガーデンの運営状態が、どうなっているのか…。
 見るのが恐い気もするが、こうなったら腹をくくって、出来た空白を埋める必要がある。
 業務の面から考えても、俺の軽率さをキスティスが怒るのは当然だ。
 俺はそうそう記憶を飛ばして良い立場じゃないんだ。
 誰かに行き会ったらどう説明しようか…と俯きがちに廊下を歩いたが、幸運なことに、誰にも会わないまま執務室に着いた。
 入口の扉を、カードキーで解錠し、オープンのボタンを押す。
 スライドドアが開いて、一歩中に入ると、奥の机に座っていたサイファーが、顔を上げた。
「おう」
 …。
 …。
 …。
 俺は思わず、くるりと踵を返し、ドアから廊下へ出た。
 背後のドアが閉まったかと思うと、間髪入れずまた開く気配がして、がっしと後ろ襟を掴まれる。
「こらテメエ。今のは無えだろうが。ああ?」
 後頭部のあたりから、ぞっとするような低い声が響いてくる。
「いや…その…気のせいかと思って」
 我ながら苦しい言い逃れをしてみると、襟が解放されて、軽く頭をはたかれた。
「あんなばっちり目が合っといて、気のせいなわけあるか」
「…」
 …気のせいかと思いたかったんだが。
「机の上、優先順に積んどいたぜ。ほら、早く入れ」
 サイファーに促されて部屋に入り、デスクに重ねられたファイルを検める。
 …まさに見たいと思っていた書類が揃っていた。
「…どうして」
「お前が来るのは判ってたからな」
 俺はひとつ瞬きして、サイファーの落ち着き払った表情の中に答えを探した。
 サイファーは自分の席に座り、俺を見返してニヤリと笑う。
「簡単な事だ。…いっつもそうだからよ。記憶を失くしたお前に休みをくれてやっても、まっすぐここにきて、資料を見たがるんだ」
「成る程な。…面白くも何ともない行動パターンって訳か」
 納得した俺はデスクチェアに掛けて、PCの電源を入れてから資料を拡げる。
「ああ、そうだ。コンピュータのパスは、FORGET-ME-NOT#3」
「…」
 なんだその耳の痛いパスワードは。
「そうヤなカオすんな。俺じゃねえ、センセが設定したんだよ。一回めのとき、電算管理の奴とも連絡取れなくて参ったから」
「そうか…」
 俺は感謝すべきなんだろう。このPCが開かなくちゃ、話にならない。
「これからもパスワード変えたら、俺かセンセにはこっそり教えとけよ。まあ、記憶すっ飛ばさねえのが一番だがな」
「…了解。あんたも…今日は仕事か?」
「まあな。今は一応、お前付きの補佐だから」
「そうなのか」
 俺は内心の驚きを、顔に出さないよう努めた。
 俺の記憶じゃ、俺付きの補佐はキスティスひとりで、サイファーはまだ特別な割り振りはなく、全員の補佐…といえば聞こえはいいが、要するに雑用係みたいなものだった。
「ああ。半年くらい前から、センセと二人で担当するようになった」
 昨日の会話から、サイファーはキスティの専任補佐になったのかと思ってた。
 だが、俺の補佐ということは、今、サイファーはキスティスと同格ってことか。
 まだ経過観察中なのに、そこまで信用されるようになったとは…。
「お前もセンセも、ずーっと事務漬けじゃ腐っちまうから。三人で実務を回すようになってやっと、外の空気も吸えるようになったって…言ってた」
 サイファーがデスク越しに、ちらりと俺を見た。
 まったく記憶に無いが、流れを汲んで確認する。
「…俺が」
「お前が」
 短く答えて、サイファーは再び書類に目を落とし、モニタの内容に照らしてチェックを入れ始めた。
 今日、サイファーはオフの予定だった。
 それじゃその書類は、俺の今回のアクシデントで、サイファーに回った分ってことか。
「…済まない」
「全くだ。お前、ちっとは反省しろよ」
 じわじわと旗色の悪さを実感して詫びてみるが、サイファーは顔も上げない。
 …彼の言うとおりだ。
 せめて、早く自分の役割をこなせるように戻らないと。
 俺は胃の痛みをこらえつつ、サイファーの積んでくれたファイルにとりかかった。



 2013.05.01 / Lovefool : Squall : 4 / to be continued …