ハッシャバイ(スコール * 3)

 高熱が出たのが却って良かったのか、次の日には体調が戻ってきた。
 それからの俺は、決して風邪などひかぬよう、健康管理に万全を尽くした。ソファでくつろぐのもやめた。リビングで過ごす時間はどんどん短くなり、サイファーとは顔を合わせない日も多くなった。
 隙を見せるのが怖かった。
 指揮官の面を外したまま、彼と長く向かい合うと、何か恐ろしいことが起こりそうな気がした。それが何なのかは分からないけれど、少なくとも俺は、暴力を恐れているわけでは無かった。
 サイファーの怒りや苛立ちとは、過去に何度も向き合ったことがあった。あまり思いだしたくないが、拷問を受けたことだってあるぐらいだ。
 しかし一度だってあんな、全身に鳥肌の立つような、得体のしれない恐怖を味わったことは無かった。いったい自分が何を恐れているのか、何故かそれ自体が怖くて、考えたくなかった。
 俺は彼の監視官だというのに、部屋で顔を合わせると緊張して上手く息が出来なかった。

 サイファーはそんな俺に何も言わなかった。
 俺だけがサイファーを避けているわけではなく、サイファーも俺のことを避けていた。
 俺がキッチンを使い終わって自室に戻ると、入れ違いにサイファーが部屋から出て来て、湯を沸かしている音が聞こえたりした。
 理由は知らない。
 こちらも向こうを避けていて、その理由が説明出来ないのだから、聞けるはずもなかった。
 そのうち、暗黙のルールが積み重なって、ほとんどお互い出くわさずに生活出来るようになり、一日、また一日と日が過ぎて行った。

 そうして、そのままサイファーの卒業の日を迎えた。
 業務が立て込んでいたこともあって、俺はとうとう、その日もサイファーに会わずに過ごした。
 その日、深夜になってから自室に戻ると、彼の居なくなった部屋は冷え冷えとしていた。
 これでもう、ソファで居眠りをしてもかまわないし、いつでもシャワーを使えるわけだ。俺は軽く伸びをして、久しぶりにソファに掛け、足を組んで天井を見上げた。
 元に戻ったんだ。
 サイファーがガーデンに帰ってくる前に、戻っただけなんだ。
 そもそも、監視官を命ぜられたとき、正直、同室なんて気づまりだなと思ったじゃないか。
 実際、ここ何カ月かなんて、気づまりなんてものじゃなかった。
 彼が居なくなって、ほっとしていいはずだった。
 それなのに、この気持ちは何なのだろう。
 あの個室のドアの向こうに、もう彼は居ない。二度と戻ってくることは無い。そう思うと、最後ぐらい、何か一言でも交わせば良かったような気がしてくる。
 気を取り直して、水でも飲もうと冷蔵庫を開けると、白く光る庫内に、切れかかっていたマーマレイドの瓶が補充してあった。
 思わず手に取って、新品のそれを見つめた。
 馬鹿だな。あんたもう使わないのに。
 手のひらの中の、とろりと美しいオレンジの瓶を冷蔵庫に戻しながら俺は、石の家でマーマレイドを使っていたことを今さら思い出した。
 なんだ。解けてみれば簡単なことだ。
 甘いもの嫌いの男ふたりが、どうしてマーマレイドだけは別なのか、ずっと不思議だったのに。
 サイファー、あんたは覚えてたのか?
 訊いてみたかったが、彼はもう居ない。
 何も言えなかった、と思った。
 何を言えばいいのか分からなかったし、何を言っても空々しい気がした。それでも、言いそびれた何かが胸に残っているようで、そこがやけに重たかった。

 * * * * *

「可愛かったね~っ。ほんっとに、天使みたいだった!」
 リノアがぴょんぴょん跳ねるように歩きながら、俺に笑いかけてくる。
 エスタの透き通るような街並みが、夕日に照らされている帰り路。彼女の長い黒髪も、薔薇色の陽を受けて輝いて見える。
「男の子だからかなあ、エルオーネにそっくり。ね、そう思わなかった?」
 魔女戦争から数年を経て、エスタシティはバラムと海路の定期便で結ばれるようになった。こうして、ちょっとした用事で身内を訪ねることもできる。
 一昨年の春、例の研究所の若手スタッフと(ラグナ的には)電撃結婚を果たしたエルオーネが、先月めでたく男の子を出産した。
 そのお祝いを渡しに来た帰り道なのだが、実際のところは、出産のニュースを聞きつけたリノアが、「どーしても赤ちゃん見たい!」とギフトを選び、面倒がる俺をエスタまで引っ張って来たのだった。
 俺は空中回廊から、広がる都市をぼんやりと見わたす。
 頭の中で、まだあのメロディが微かに流れていた。
「ちょっと、スコールってば。聞いてるの~?」
 リノアがぱたぱたと目の前で手のひらをひらめかせて、俺は我に返った。
 魔女の下唇が少しだけ突き出している。マズい。
「そうだな。確かにエルに似てた」
 耳に残る言葉の余韻を手繰り寄せて質問の返事をし、どうにか微笑み返す。
「…どうしたの? スコール」
「いや、何でもない」
「何でもないって態度じゃないぞお~?」
 疑わしげに、下から俺の顔を覗きこんでくる。
「あの歌がそ~んなに懐かしかったのかな? ん? スコールくん」
 頭の中に繰り返し響いている歌声。

 おやすみ、おやすみ、愛しい子。
 いい夢を見て、ゆっくりおやすみ。

 今日の午後、エルはベビーベッドに収まったちいさな子を優しく見つめながら、美しい声であの歌を歌ったのだ。
 息を呑んだ俺の顔を見て、エルはくすくすと笑った。
(…スコール、このうた、覚えてるの?)
(……ああ。何となく。聞いたことが、あるような気がする)
 ゆっくりと俺は答えた。
 エルの今の住まいは、エスタシティの南寄りの郊外にあった。
 白い椅子、薄緑のテーブル。
 俺はエルの淹れてくれた紅茶のカップを持ち上げ、ゆっくりと口に運んだ。
(貴方がまだちいさい頃に、よく歌ってあげたのよ。これを歌わないと機嫌が悪かったんだから)
 エルはゆったりと俺に微笑みかける。
(へえ~。かっわいい~)
 リノアが無邪気な声を上げると、エルオーネは勢い込んで余計な事を喋り出す。
(そうそう。すっごく可愛かったのよ、スコールは。にこって笑うと、まるで本物の天使みたいで…)
(エル。昔話はやめてくれ)
 俺は憮然としてエルの話を遮った。誰が天使だ。
 そんなこと言われて嬉しい男が居るわけがない。
(こんなむすっとした子じゃなかったのに。…わたしたちのせいね)
(むすっとしてて悪かったな)
(だいじょーぶ。スコールは、むすっとしてても可愛いよ!)
(リノア!)
 俺が軽く怒ってみせても、このふたりには全く効き目が無い。
(あらあら、お熱いこと)
 エルオーネにからかわれて、俺は仏頂面で横を向いた。
(ね、今の歌、初めて聞きました。セントラの歌なんですか?)
(ううん、ウィンヒルの地方の歌なの。最初は、レインがスコールに歌ってたのよ)
 リノアに聞かれ、エルオーネは懐かしそうに目を細める。
 そうだったのか。
 俺はエルの子の、ふっくらと安らかな寝顔を眺めながら、
 頭蓋の内に歌声が巡ってくるのを聴いていた。
 いつか見た夢のときと同じに、歌い手は順番に変わって行き、やがて俺は胸が痛むのを感じた。

 * * * * *

「スコールってば! まーた上の空なんだから、もうっ」
 リノアに睨まれて、俺はまたぼうっとしていた自分に気づいた。
 下唇が突き出るどころじゃない。完全にふくれっ面になっている魔女を見て、ヤバいな、と焦る。
 リノアとは今日、ここの港で別れて、リノアはティンバーへ、俺はバラムへ帰る予定になっている。
 それまでに機嫌を直してもらわないと、後が大変だ。
「ごめん。…確かにちょっと懐かしかったみたいだ。釣られて、いろんなことを思い出してた」
 即座に謝り、半分ぐらい正直に打ち明ける。
 リノアは、俺が何を考えてるのかをいつも知りたがるから。
「いろんなことって?」
「うん。…エルオーネが居なくなって、寂しかったこととか」
「…うっふ。スコール、すっごい泣いてばっかいたんだってね~。セルフィが言ってた!」
「嫌な話してるんだな」
 だってスコールのこと知りたいんだもん!とリノアは手に持ったバッグをぐるんと振り回す。
 そんなことしてると、中身が落ちるぞ、と思う。
 リノアは首を傾けて、大きな黒い瞳で、俺を見つめてくる。
「…ね、スコール。もう大丈夫? 寂しくない?」
 リノアの問いに、反射的に「寂しくない」と答えようとして、思わず笑った。
 ずっと以前、誰かにも、同じことを訊かれた。
 そして、同じように答えた。
 俺は何も変わっていない。本当は、何も。
 黙っているつもりだったのに、勝手に口が動いた。
「昔、嘘をついたんだ」
(まだ寂しいか?)
 自分だって子どものくせに、俺を見下ろし、気遣わしげな顔をしていた金髪の少年の姿が目に蘇った。
「嘘?」
「たいした嘘じゃない。それをただ、思い出しただけだ。…あの歌は子守歌にしては、どこか寂しい歌だと思わないか?」
「うん。優しいけど、なんか切なくなるようなメロディだったね。
 わたしが子どもの頃、ママが歌ってくれたのは、もっと明るかったよ」
 歌詞はよく覚えてないけど、と言いながらも、リノアは懐かしそうに、ふんふーん、ふんふんふーん、とハミングしてみせた。
 明るく伸びやかなフレーズ。
 スキップまで付けて軽やかに俺を追い越し、リノアはくるりと振り向いて微笑む。
「そうだ、今度歌ってあげるね! 歌詞、ちゃんと調べとくから」
「…」
 俺は返事が出来ない。
 自分でも分からなかった。
 リノアの明るい歌で、あの歌を上書きして消してしまいたいのか、それとも、そうしたくないのか。
 俺にとって、あの歌は、もうエルオーネの歌じゃなかった。
 さっき、懐かしいはずのエルの歌声を聞いて、そのことだけはようやく、はっきり分かった。
 記憶にないレインの歌でもない。
 あれはサイファーの歌だ。サイファーが、俺に歌ってくれた歌。
 ついさっきまで、頭の隅でかすかに、彼の歌声が流れていた。
「あれ、スコールってばまだ浮かない顔しちゃって、なぁに? …あっ。そうか! わかったぞっ!」
 魔女がいきなり人差し指を俺の鼻先に突きつけてくる。
「スコール、エルオーネのこと、好きだったんでしょ~? どうだっ!!」
 …正面から強くみぞおちを突かれたように、息が詰まった。
 リノアの的外れでいて鋭い一撃で、俺は考えないように、考えないようにしていたことが、とうとう言葉になって胸に焼きつくのを感じた。

 好きだったんだ。

 俺は、あの歌が好きだったんだ。
 目を開けたらそれが終わってしまうかもしれないことが怖くて、ずっと寝たふりをしていたんだ。
 髪を撫でてくれる手のひらも好きだった。
 あのとき一度だけ触れてきた唇も、好きだったんだ。

 突然、夕焼けに染まった街がぼやけて、リノアの顔が見えなくなった。熱くなった目から、あり得ないものが零れ落ちる感覚に呆然とする。
「スコール。…ごめん。泣いてるの?」
 リノアがそっと手を伸ばして、頬を拭ってくれる。
 泣いてなんかいない、と俺がまた嘘をつくと、「そうだね~、スコールは強い子だもんね!」と、魔女が笑った。
 いったい何をやってるんだ俺は。リノアの前で。というか、こんな往来で。
 泣くほどのことか。
 こんなにも優しいリノアが側にいて、俺はもう独りじゃない。
 無力でもないし、子どもでもない。
 歌なんか歌ってもらわなくても、大丈夫なのに。
 いつまでも俯いて歩いている俺の手の中に、リノアの手が滑り込んでくる。
「こらスコール。こんなに可愛い子が隣に居るのに、めそめそするな!」
 そう言って、ぎゅっと俺の手を握ってくれる。温かい気持ちが、手のひらから流れ込んでくる。
 俺はしあわせだと思う。
 これまでの人生の中で、今が一番しあわせだと思う。
 黙って、リノアの手をぎゅっと握り返す。
 それなのに、痛みが消えない。

 こんなにもしあわせなのに、どうしてか胸が痛い。



2011.11.30 / hash a bye / Squall * 3 / END

ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
Short Storyに入るはずだった話がずるずると延びてこんなことになってしまいました。
サイファーさん編もありますが、最後まで報われない話です…。スコールマジで駄目な子ですみません。それでも大丈夫な方は、サイファーさん編にもお付き合いいただけると嬉しいです。