それから半年ほどは無事に過ぎた。
鼻歌の正体が分かった俺は、サイファーがその歌を口ずさみ始めると、逆に個室に引き上げるようになった。
サイファーは何も言わなかったし、俺も何も言わなかった。
監視官といっても形ばかりで、今のサイファーは、監視する必要などなかった。むしろ模範生といってもいいぐらいだった。
心に何か決めたことでもあるのか、以前の派手な立ち回りが嘘のように、彼は黙々と課題をこなして、あっさりと試験をパスした。
任務に就くようになってからも、冷静で丁寧な仕事ぶりを見せ、簡潔明瞭な報告書を提出してきた。
淡々と日々を積み重ねて、あの出来事は俺の中では無かったことになりかかっていた頃、俺は酷い風邪をひいてしまった。
朝のキッチンでぐずぐずの顔を見られて、保健室行くか?と聞かれたが、俺は首を横に振った。
指揮官になってから、一度だけ保健室で寝込んだことがあるが、見舞いと称する見物客が多くて、とても休めたものでは無かった。
カドワキが居れば追い払ってくれるが、彼女も一日中俺の番をしているわけにもいかない。
物見高い連中の娯楽のネタにされるのは、もう御免だった。
保健室を嫌がる俺にサイファーは渋い顔をしたが、前回の状況を思い出したらしい。
「じゃあ今日は部屋で寝てろ。ただしベッドで仕事はするなよ」
「…わかってる」
本当は持ち帰った資料のチェックだけでも、と思っていた俺は、サイファーの鋭さに閉口しながら、面倒なので頷く。
鍵かけんなよ、とさらに釘を刺された。
俺がサイファーの監視官だっていうのに、これじゃまるっきり逆みたいだ。こっそりため息をつきながら、自室に戻り、ベッドに潜り込んだ。
そのあと、あっという間に熱が上がった。
頭の中が蕩けるように熱く、体は寒くて堪らなかった。
空調のかかった部屋で、頬まで上掛けを被っているのに、歯ががちがちと鳴るほどの寒気だった。
薬の効き目がさっぱり感じられない。
ベッドの中でまるまって震えていると、毛布を担いだサイファーが入ってきて、いきなり上掛けごと俺を抱きあげ、床に下ろしたので驚いた。それから毛布をシーツの上に敷き、俺と上掛けをそっくりそのまま、元通りにベッドの上に戻した。
「少しはあったかくなったか?」
体の下が柔らかい毛布に変わっただけで、ベッドの中がふんわりと暖まって、骨から来るような震えが和らぐのを感じた。
「どうしたんだ、これ?」
「保健室で借りた。…なんか欲しいもんあるか?」
「…いや、大丈夫だ。…あんた、任務があるだろ」
本当は一瞬、ちらりとあの歌のことが虚ろな思考の隅をよぎり、自分の頭を疑った。
俺はどうかしているんだ。
39度も熱があれば、どうかしたって仕方ない。
「何かあったら電話しろ」
そう言って、サイファーは出て行った。
意識が濁って、間もなく、俺は眠りに落ちた。
* * * * *
ガーデンの年少組の寮では、しょっちゅう部屋替えがあった。
途中入学してくる生徒もいれば、適性なしと判断されて、ガーデンを辞める生徒も多かったし、「公平」に敏感な年頃の子どもたちは、絶えずシャッフルされていないと、少しでも恵まれた環境にいる子に焼きもちを焼いたからだ。
サイファーと最後に同室になったのは、10歳の頃だった。
当時はまだG.F.の副作用などと言うものはなくて、俺の記憶はきちんと繋がっていた。
サイファーは相変わらず、ガーデンの教室では素っ気なく、俺と目を合わせることさえ無かった。ひょろひょろと貧弱で、いまひとつ実技のふるわない俺と、大柄でカンの良いサイファーの差は、嫌になるほど歴然としていた。
ある夜、二段ベッドの下段で眠っていた俺は、懐かしい歌声で目を覚ました。
開きそうになる瞼を、ぐっと閉じ直す。
あの歌だ。
それが聞こえている間、うっかり瞼を開けないルールはとっさに守れたが、あまりに久しぶりだったので、俺はそれが本当なのか夢なのか、初めは区別がつかなかった。
誰かの手が、宥めるように、俺の頭の上で動いていた。指が髪の中に入り込んできて、頭皮をゆっくりと撫でていく感覚。
夢じゃない。
俺は困惑した。夢なら、安心して目を閉じていられたのに。
どうしてこんなことをするんだ、サイファー。
それとも、同室になったヤツみんなに、こうしてやってるんだろうか…まさかな。
胸がちりちりと焦げ付くように痛んだ。
悲しくなるほど美しいメロディ。昼間の彼からは想像もつかないような、優しい声。
ずっと聞いていたい。
でももうやめてほしい。
そう思ったとき、見透かされたように、ぱったりと歌が途切れた。
(スコール)
突然名前を呼ばれてぎくりとする。
(起きてるんだろう、お前)
起きてない、と心の中で返事をする。俺は寝ているんだ。
(…まだ寂しいか?)
何を聞かれているのか分からなかった。
寂しい?
俺は寂しいのか?
そのとき、柔らかく湿った、温かい何かが、俺の額に触れた。
俺は頭上にある何かを振り払って跳ね起きた。
そのまま、自分の額を指先で強くぬぐう。傷跡がざらりと指にひっかかった…傷跡?
焦点を目の前に合わせると、今度こそ本物の、19歳のサイファーが驚いた顔をしている。
俺が振り払ったのはサイファーの手のひらで、前後の状況から察するに、おそらくそれで熱を測ろうとしていたに違いなかった。
突然8年の時間が俺のうえに降ってきて、すぐに現実に馴染めない。
あれは夢だ。…夢のような、昔の記憶だ。
熱のせいで頭がぼうっとしていた。
様子を見に来てくれたサイファーの手を、寝惚けてはねのけてしまったんだ。
何か言わなくては。
そう思って見上げた彼は、読めない表情をしていた。
何の感情も窺えない冷たい顔の、眼だけが異常な光を帯びている。ふたつの翠の瞳は常になく暗く、その中に、ゆらりと何かが見えた気がした。この生ぬるい日々を叩き壊すような、殺意にも似た、凶暴で恐ろしく危険な何かが。
全身に鳥肌が立つ、ぞくっとする感覚が走った。
恐怖を顔に出すな。
戦闘経験と自衛心が、半ば自動的に表情を制御したが、多分目には怯えが浮かんでいたのだろう、サイファーが呆れたようにふと笑って、張りつめた空気がほどけた。
「何もしちゃねーよ。熱が上がってねえか診ようと思っただけだ」
「…わかっている。…すまない、夢見が悪くて」
いつかした言い訳が、そのまま口をついて出た。
心臓が胸を内側から叩いている。
体中が汗でべっとりと濡れている。
「そんなに擦ってもしょうがねえだろ」
苦笑の混じった言葉で、自分がまだ額をさすっていることに気づき、何年も前のものを今さら、と背中を向けたサイファーに言い当てられて、全身が強張った。
俺の指が、無意識に拭い去ろうとしていたもの。
寝室の扉が閉じる音を聞いてから、ゆっくりと体を起して、俺はその扉を見つめた。
あんたはずっと覚えてたのか。
俺が自分ひとりでここまで来たような顔をして、あんたを見忘れてしまった後も。
* * * * *
(まだ寂しいか?)
8年前、サイファーのキスが額に落ちて、俺はびっくりして、ついに目を開けてしまった。
(何とか言えよ、スコール)
窓から月明かりの射す薄闇のなかで、初めて見る真剣な顔をして、サイファーは俺を見下ろしていた。
今までにない展開に対応出来ず、ショックで停止しかかった頭を、俺は必死で動かそうとする。
何て答えればいい?
寂しくない。そう言ったら嘘のような気がした。
寂しい。そう言ったら…まるで、もっとキスしてくれって言ってるみたいだ。
かーっと頬に血が上った。
(…寂しくない)
俺はそう答えた。
(本当か?)
(本当だ)
嘘がばれないかドキドキしたが、サイファーはそうか、と頷くと、それきり黙って梯子を登り、自分のベッドに戻って行った。
真上でサイファーが横たわる気配がして、ようやく、俺は息を吐いた。
熱くなった頬が痺れていた。
いったい何なんだ。あんたは何を考えてるんだ。
横になったまま上掛けを握りしめて、目の前のベッドの天井を見つめた。この上に寝ている彼は、俺を未だにちいさな子どもか何かみたいに、勘違いしているのだろうか。
歳なんか、ひとつしか違わないのに。
その夜は眠れなかった。
翌日の授業で眠ってしまい、俺は初めて廊下に立たされるという不名誉な経験をした。
しばらくの間、俺はその柔らかな感触の余韻に悩まされたが、サイファーは何も変わりなく見えた。
昼間のサイファーは相変わらず、俺のことなど目にも入らないといった顔をしている。鮮やかな姿を遠くから見ていると、その唇が俺に触れたことなど、幻のようだった。
忘れよう。
数日間に渡り、無駄に悶々とした末に、俺は結論に達した。
サイファーは気まぐれだ。
きっと彼にとっては、大した意味などない行動なのだろう。
俺だけこんなに何日も悩んで、馬鹿みたいだ。
忘れてしまおう。強くそう思った。
そして俺は、本当に忘れてしまった。
持て余していたその記憶を、G.F.がいつの間にか、俺の知らない何処かへ仕舞いこんでくれた。
2011.11.30 / hash a bye / Squall * 2 / to be continued …