ハッシャバイ(スコール * 1)

 長い付き合いのはずなのだが、俺はサイファーのことをあまり知らない。
 彼の監視官を拝命し、それまでひとりで使っていた居室をシェアするようになって初めて、俺はそのことに気づいた。
 昼の廊下を我が物顔でのし歩き、隙あらば因縁をつけてくることは知っていたが、朝起きたら必ず窓を開けることや、俺と同じでトーストにマーマレイドを使うことは知らなかった。夜になるとその日の出来事をグリーンブラックのインクで記録することも、ときどき鼻歌を歌うことも知らなかった。
 それは、いつも同じ歌のように聞こえた。そのメロディを聞くといつも、どうしてか胸の辺りがかすかに痛くなる。それなのに、夜が更けてサイファーがふんふん言い始めると、俺はなぜかリビングを出られなくなり、ソファで雑誌をめくったり、ぼんやり爪を切ったりした。
 何という歌なのかは知らない。
 曲名を尋ねてもよかったのだが、俺は自分が彼の歌を聴いていると知られたくなかったので、あえて尋ねることはしなかった。胸が痛むことは、もっと知られたくなかった。

 不思議に思いながら過ごすうちに、昔の夢を見た。
 俺は固いベッドに寝転がって、あの歌を聴いていた。
 歌っているのは柔らかくて、世界一きれいだと俺が思っていた声。優しい指が、俺の髪を撫でている。
 おやすみ、おやすみ、愛しい子。
 いい夢を見て、ゆっくりおやすみ。
 …眩しいエルオーネ。
 彼女だけは、ずっと一緒に居てくれると思っていた。
 俺だけのものだと思っていた。

 エルオーネが姿を隠してからしばらくの間、俺はほとんど誰とも口をきかなかった。花が咲こうが星が光ろうが、エルが居なければ意味が無く、幼い俺は子どもの形をした抜け殻のようだった。
 無邪気なゼルが、少しばかり涙もろいことはからかう他の子たちも、俺の病的な塞ぎようは気味が悪かったのだろう、いじめられたりはしなかった。キスティがしきりと気を引き立ててくれようとしていたことは覚えているが、俺はエルオーネでなければ駄目だった。
 サイファーは俺のことなど相手にしなかった。ママ先生が無理に一緒に遊ばせようとすると、チッと舌うちして目を逸らした。
 ゼルやセルフィが時折意を決して誘いに来たが、俺は頑なに拒み続けた。どうせ皆の輪に加わっても、エルが居ないと、俺は上手く遊べないのだ。そのうち場が盛り下がって、誘った奴まで俺を疎んじるようになる。
 その頃にはもう、そんなことは分かっていて、俺は皆が遊ぶのを、遠くから眺めているほうが好きだった。

 真夜中に誰かが歌っている。
 おやすみ、おやすみ、愛しい子。
 誰かが歌っていて、俺は寝たふりをしている。
 セントラの石の家ではベッドが足りなくて、俺は他の子どもと同じベッドに寝ていた。エルオーネはもう居ないのに、隣に横たわった誰かがあの歌を歌って、俺の髪を撫でている。
 サイファーだ。
 サイファーがあの歌を歌っていた。小さな声で。
 俺はどうしていいのか分からなくて、仰向いたまま目を閉じて、呼吸をしている。
 サイファーの温かくて湿った手が、俺の髪の上を滑っていく。
 心細くて仕方が無かった。
 何でこんなことをするんだろう。サイファーは俺が嫌いなのに。
 昼間は俺のことなんか、見向きもしないのに。

 歌い手がいつのまにか、また変わっている。
 今度は低い声。響きが耳に穏やかだ。
 同じように髪に触れる指は、冷たく乾いている。
 ずいぶん大きな手だな、とぼんやり考える。
 こうして頭を撫でてもらっていると、とても気持ちいい。
 気分が良くなって、ついでに足を伸ばそうとしたら、ソファの肘掛にひっかかった。やっぱりこのソファは寝るには狭いな、と考えて気づいた。
 気持ちいいけど、…これ、もしかして、夢じゃないのか。
 瞬きして俺は、居室のソファで眠り込んでいたことを知り、遠ざかる手の持ち主を仰ぎ見た。
「…あんた、帰るの明日じゃなかったか?」
 からからに乾いた喉に唾液を呑み込んで尋ねたら、ひどい掠れ声だった。
「予定変更になった。…うたた寝にしちゃ、うなされてたぜ、お前」
「…夢見が悪かった」
 ソファでの居眠りは、ひとり暮らしの頃に身についた悪習だった。リノアに寝顔を「かわいい」と評されてから、人前で眠り込むような失態は演じないよう、常に気を付けていたつもりだったのに。
 体をゆっくり起こして、顔を手で覆った。
 サイファーの鼻歌は…あの歌だった。
 あれは、エルオーネの歌っていた子守歌だったんだ。
 甦った記憶に少なからず動揺して、俺は覆った手の内側で何度か瞬きを繰り返した。

 サイファーは覚えているんだ。
 俺が小さかったときのことを。俺が忘れてしまったことを。
 あの石の家で、みんな眠ってしまった夜中に、俺に子守歌を歌ってやったことを。

「ひでえ声だな。お前、粘膜弱いんだから、うがいして寝ろよ」
「…そうする」
 さっさと自分の寝室へ入る後ろ姿を見送って、俺はようやく普通に息を吐いた。それにしても、大の男が、大の男が眠っている傍で歌を歌って髪を撫でるというのは、少しばかり異常な事ではないのだろうか。
 サイファーが平然としているので、夢見の気まずさもあって、俺もつい流してしまった。「何してるんだ」ぐらい言わなかったのは失敗だった気がしたが、もう遅かった。

 次の朝、顔を合わせたサイファーは、いつもと同じだった。
 俺の方だけ、サイファーを意識して緊張していた。
 向こうはああいうことをずっと覚えていて、それを踏まえたうえで俺に接していたのだとすれば、それも当たり前かもしれないが、俺のほうは気恥ずかしくて、彼の顔をまともにみられなかった。以前にもこんなことがあったような気がしたが、思いだせなかった。

 俺は努めて平静を装っていたが、その晩、電話をくれた恋人のリノアには通じなかった。彼女は魔女の恐ろしい洞察力を発揮して、「何かあったの、スコール?」と問い質して来たけれど、こんな微妙なことを上手く説明する自信など俺には無かった。
 気にするほどのことじゃない。自分に言い聞かせるように、そう答えた。
 本当に、気にするほどのことじゃないんだ。
 繰り返しても、リノアは最後まで不審そうだったが、どうにか押し切って通話を終えた。
 嘘はついていない、と俺は思う。
 だって、本当に気にするほどのことじゃないんだから。
 …それなのに、どうして俺はここまで気にしているんだろうな。
 リビングに通じるドアを眺めてみる。
 あの向こうにサイファーが居て、多分まだコーヒーを飲みながらスポーツ番組かなんかを見ている。
 呑気なサイファーが憎たらしかった。



2011.11.30 / hash a bye / Squall * 1 / to be continued …