4年前、俺は訓練施設でシヴァを召喚した。
そして、他の多くの記憶とともに、サイファー・アルマシーという人間について、何もかもを忘れてしまった。
その経緯を思い出し、これで例の夢も終わるのかと思いきや、その晩もまた同じ夢を見た。夢のなかの日付は、あの訓練施設での召喚事件よりも、すこし前に戻っていた。
* * * * *
もうすぐ消灯の時刻だ。
二段ベッドの下段に俺はうつ伏せて、あの緑の表紙の本を広げている。隣にサイファーも並んで寝そべり、一緒に開いたページを覗き込んでいる。
「ここでやっと決着がつく。…善き魔女は、悪しき魔女の力も自分のなかに封印して、また眠っちまう」
サイファーは粗筋の説明をいったん切り、ちゃんと話についてきているか、俺の顔を見て確かめる。分かった、という印に俺が頷くと、サイファーは指先で次のページをめくる。
先週末には、終盤近くまで読み進めていたのに…頭に入っていたはずの物語が、煙のように消えてしまう。何度も、何度もだ。
原因は分からない。…というか、あまり考えたくない。
今のところ、その他の記憶が抜け落ちることはなく、いっそ読むのをやめてしまおうかとも思ったけれど、サイファーがこうして教えてくれると、読んだ文章がおぼろげに頭に甦って来る。
「…それで? 騎士はもう一回、善き魔女を起こすのか?」
もともと、善き魔女は長い眠りについていた。魔女が自分自身に掛けた呪いの封印を、主人公の青年が勘違いで解いてしまったのが、この物語の発端だった。
「いや。騎士は周りの皆から、もう魔女を目覚めさせるのはやめろと反対される」
「…どうして?」
俺は思わず訊き返した。
善き魔女は国の民と和解し、民のために戦ったのに。
「あの騎士に出会うまで、善き魔女は不幸だった。起きていると不幸だから、力を尽くして自分を呪って、眠っていたんだ」
サイファーはぱらぱらとページを繰り、斜めに目を通していく。
「…そうだけど」
「悪しき魔女のほうだって、最初から悪いヤツだったわけじゃねえ。魔女であるってことは、それぐらい辛い目に遭うってことだ」
「でも…」
「せっかく眠ってるんだから、静かに眠らせておいてやれって言われても、別に不思議じゃねえだろ」
シーツに肘をついた俺は、クリーム色の紙面に視線を落として、しばらく考える。
「…だって…それじゃ、騎士はどうする?」
眠っている魔女は、それでもいいかもしれない。
だけど、一生変わらず、魔女の側から離れないと誓った、彼の人生はどうなるんだ?
「どうもしねえよ。…ただ、眠ってる魔女の側でひとりで番をして、見守ってる」
その淡々とした答えに、俺はぞっとするような驚きをもって、サイファーの顔を間近に見つめた。
「…そんな」
ただ毎日、眠っている魔女を眺めるだけで過ごすのか?
何にも言わずに?
騎士がそうやって見守っていることさえ、眠っている魔女には分からないのに…?
「そんなの…、ふたりでいたって、独りでいるのとおんなじじゃないか…!」
そのときの俺には、まるでサイファーがその筋書きを受け入れているように見えたんだ。
顔を強張らせる俺に、サイファーは笑った。
「お前…、バカだな、そんなとこで終わりゃしねえって」
笑いながら、俺の髪をくしゃくしゃとかき混ぜる。
…そうだよな。
そんな終わりじゃ、納得出来ない。ちゃんとした話なら、そんなふうに終わるはずがないんだ。
俺は安心すると同時に、まだページが残っていることを忘れてしまったことが気恥ずかしくなり、髪を触るサイファーの手を退けて、開いた本を自分の手元へ引き寄せた。
「…お前、あんなにあの映画見せられたのに、ぜんぜん話覚えてねえのな」
驚いた俺の顔がよっぽど面白かったのか、サイファーはまだ笑っている。
「お前、まだちっちゃかったからなぁ。途中で寝ちまってたのかもな」
「……サイファーだって、ちっちゃかっただろ」
「…まあ、そういうことにしとくか。いいから、続き読めよ」
俺は言われたとおりに、本の続きを読み始める。
粗筋の説明が終わった後も、サイファーは隣に居座って、本を読む俺を見ている。
「サイファー…見てられると、読みづらい」
「見てねーよ。俺も続きを読んでるんだ」
サイファーは嘘つきだ。
見てない、と言った一分後にはもう、開いた本じゃなく、俺の方を見ている。そんなに近くから、じっと見るのはやめてほしいのに…俺もなぜか、何も言えなくなってしまう。
視線に気づかないふりをして、俺はページをめくるけれど、目で辿る単語の意味がぼやける。狭いベッドの上にふたりで居ると、そこだけ空気が薄くなっていくような気がする…。
消灯のチャイムが鳴っても、サイファーは俺のベッドからなかなか出て行かない。そうしているうちにも、廊下からゆっくりした大人の足音が響いてくる。
「サイファー、見回りが来る」
「ちぇっ、もうそんな時間かよ…」
サイファーは時計に目をやると、軽く舌うちして、俺の髪を撫でた。
「早く。すぐ近くまで来てる」
こつ、こつ、とブーツの硬い足音が鮮明になる。
シュン、と何処かの部屋のドアが開く音まで聞こえてくる…。
「サイファー、」
「しょーがねーな。…じゃ、おやすみ」
俺は今にも教官がドアを開けるんじゃないかと気が気じゃないのに、サイファーは名残惜しそうな顔で、俺の頬に軽く音を立ててキスしてくる。
サイファーがやっと俺のベッドから降り、部屋の電気を消すと同時に、スライドドアが開いた。
「…お前、何をしている! もうベッドに入ってる時間だろう!」
「うっせーな、消灯過ぎてんだから怒鳴んなよ。便所に行くとこだよ」
床に降り立ったばかりの姿を見とがめて叫ぶ教官を押しのけ、サイファーは明るい廊下へ出て行く。
「おい待て! なんだその態度は!」
教官は足早にサイファーの後を追い、スライドドアが音を立てて閉まる。…室内は闇になった。言い争う二人の声が遠くなっていくのに耳を澄ませながら、俺はベッドの中で身体を縮める。
危なかった…。
まだ、心臓がドキドキしている。明日からは、もっと早くサイファーを自分のベッドに戻らせないと。
頬に残るキスの感触が、嬉しくない訳じゃない。
けれど、もしも…キスしているときに教官に見つかったらどうなるのか、考えないように目をつぶる。
* * * * *
次の夜、くたくたになって部屋のドアを開けると、キッチンから声が掛った。
「ずいぶん遅かったな」
俺はぎくりとして立ち止まり、カウンターの奥へ目をやる。スウェット姿のサイファーが、換気扇の下で煙草を吸っていた。
「…ああ。派遣先からクレームが来て…誤解だって分かってもらうのに手間取って」
日付はとうに変わっている。…今日はもう、寝室に引きあげていると思っていた。
カウンターの上には煙草の箱ひとつ、シンクも綺麗に片付いている。俺を待っていたのかもしれない、そう思うと、後ろめたさで胸が痛む。立て続けに起きたトラブルで…今日はとうとう、保健室を訪れることが出来なかった。
「体調はどうなんだ。カドワキは何て言ってた?」
当然、予期していた質問が来る。
「いや…」
言葉を濁す俺に、サイファーの表情が険しくなる。
「どうした? …何か、妙な診断でもされたか?」
…ますます答えづらい。
カドワキに診てもらう、という約束はしたものの…内心、それで不調が解決すると信じていない俺には、どうしても優先順位が後になる。あの夢と、今の自分に折り合いがつかないのは、結局のところ、俺自身の心の問題だ。
「今日は…保健室、行けなかったんだ。忙しくて」
答えないわけにもいかず、小さな声で返事をすると、サイファーの顔色が変わった。
「ああ? …マジで行ってねえのか?」
吸っていた煙草を灰皿でへし折り、ガシャン、とその灰皿をカウンターに叩きつける。
「スコール…お前なぁ、」
「分かってる。カドワキには、明日会う」
そう言い足して、自分の個室へ入ろうとする俺の前に、サイファーは一足早く立ち塞がった。
「話が終わってねえだろが」
自室のドア前に立たれてしまって、俺は逃げ場が無くなる。
「なあ、スコール。お前、何を抱え込んでんだ。…言えよ」
真っ直ぐに睨み付けられる。
殺気のような緊張で、ぴりぴりと頬が痺れる。本気で怒らせてしまった…。こうなると、サイファーは引かない。
「俺じゃ不足か?」
「…そうじゃない」
苛立った声で問いただされ、咄嗟に否定する。
嘘じゃない。
だが、いったいどう説明すればいい…?
「変な夢を見るようになって、眠れないだけで…」
「お前、この間もそんなこと言ってたな。…どんな夢だ?」
当たり障りないところだけ切り取ってみても、さらに踏み込まれる。
「…夢に見るほど、何が怖い? ……アルティミシアか?」
魔女の名を口にしたその目に、後悔の暗い影が差した。
「違う。そういうのじゃないんだ、ただ…」
「ただ、なんだよ?」
何でもない、と誤魔化せば、サイファーを信頼していないみたいだ。
本当のことを言うべきだろうか…?
サイファーは…あの過去の関係を覚えているんだろうか。
それとも、忘れているから、こうして…俺と普通に話せるのか。
サイファーは黙って俺を待っている。
現在のサイファーとの関係を何と呼べばいいのか、俺には分からない。だけど今、サイファーは、本気で怒るほど、俺を心配してくれている…。
「……、」
迷いながら、言葉を探す。
言ってしまっていいのか、判断がつかない。
けれど俺は、この先ずっと、あの夢を見なかったふりをして居られるだろうか…?
今だって…まともに顔を合わせているだけで苦しいのに。
平気な顔をして隠し通すなんて…俺には出来ない。
「サイファー。すごく、言いにくいんだが…」
「いいから、言ってみろって」
言うしかない流れに、俺はとうとう口を割った。
「昔の、夢なんだ。…俺がまだ、中等部の寮に居たころの」
俺の答えにサイファーは目を見開き、動きを止める。
それから何度か瞬きし、…かすかに息を吐いた。
場の空気が変わった。だが、どう変わったのか、俺にはまだ読めない。
「……それで?」
通じたのか通じないのか、どちらともつかない調子で、サイファーが訊いてくる。
緊張で口の中が乾く。俺は俯いて答えた。
「…あんたが出てくる」
ひどい説明だが、もしもサイファーに記憶があるなら、だいたい見当はつくはずだ。
「…それで?」
サイファーの言葉は同じだったが、太い両手が、ゆっくりと俺の方に伸びて来た。首を絞められるのかと一瞬思ったが、両肩を掴まれただけだった。
視線を上げると、口元だけが、微かに笑っていた。
グリーンの両目が、瞬きもせずに俺を見ている。
ぞくりと、恐怖に似た何かが背筋を走る。
確信した。…サイファーは、覚えている。
「……やっぱりいい」
無理に話を終えようとすると、サイファーは苦笑を濃くした。
「おいおい、訊いてんのはこっちだろーがよ。…それで?」
分かっているはずなのに、サイファーはなおも続きを促す。
「ただの夢なのかもしれない。だけど、あんたと俺が…その…」
それ以上は口に出せなくて、俺は再び視線を落とした。
長いため息が聞こえた。
「…なるほどな。俺か。…そりゃ、言いにくいな」
俺の両肩にかかった手が、しずかに離れていく。
「…てっきり、お前はもう、一生思い出さねえもんだと思ってたぜ」
独りごとのように、サイファーは言った。
恐ろしい眩暈を覚えて、俺は目を閉じる。
これが答えだ…。
あの夢は、本物の過去なんだ…。
しびれるような実感が頭に満ちてくる。
いま目の前にいるサイファーは、あの夢のサイファーの未来の姿なんだ、そう思うと気が遠くなった。
あまりにもいろいろな事があった…いろいろな事が。
「あんたは…ずっと覚えてたのか」
俺の間抜けな質問に、サイファーは肩をすくめた。
「お前の方はどう思ってたかわかんねーけどよ、俺は…お前と、本気で付き合ってるつもりだったんだ。まる二年もだぜ?…忘れるほうがおかしいだろ」
ぐっと言葉に詰まる俺に、少しは気が済んだのか、サイファーは俺の部屋のドアの前から退いた。
「ま、お前はそういう体質だってことだ。それでバランス取れてんだろ。気にすんな」
サイファーは大股に俺の前を横切ってキッチンに戻り、カウンターの上に置いた煙草の箱を取った。
「そんじゃお前、それで倒れるほど悩んでたのか? バカだな、何年経ったと思ってんだ」
呆れた声を聞きながら、俺は…一言も口に出来なかった。
新しい一本を箱から取り出して口にくわえ、サイファーはライターで火を点ける。
「…もう、時効だろ。俺もとっくにあきらめついたぜ」
サイファーの、ばっさりと切り捨てるような言葉に、知らず息が止まった。長く煙を吐いてから、サイファーは軽く顔をしかめた。
「そんな深刻なツラすんなよ。どっちにしろ、俺がフラれて終わってた話だろ?」
「…そうなのか?」
意外な言葉に、麻痺していた思考が、やっと動いた。
そう言えば…俺を襲った生徒達が、そんな話をしていたような気もする。
「なんだ、お前。思い出したんじゃねーの?」
「…全部じゃ無いんだと思う。まだ、ところどころ抜けてるみたいだ」
「シヴァの事件は? 昨日、書庫で調べてただろ?」
あれが昨日か、と俺はぼんやり思う。夢と現実の日付が混ざって、感覚がおかしくなっている。
「それは…思い出した。どうもあの前あたりに、あんたと喧嘩したらしいとは思ってたけど」
「お前、俺のこと振った後で、それもひっくるめて綺麗さっぱり忘れっちまいやがってよ」
サイファーは煙草をふかしながら、軽く俺を睨む。
「……俺、本当に酷くて、自分で驚いた」
ようやく俺がそれだけ言うと、サイファーは間髪入れず頷いた。
「全くだ。この際だから言うが、俺、あれは結構なトラウマなんだからな。そこはよーく反省しろよ」
「…済まない」
他に言葉が無い。
立ち尽くしたまま、深くうなだれた俺に、サイファーはさばさばした声で答えた。
「まあいい。もう、終わった話だ。…きっとお前は、全部忘れなきゃやってらんねえほど、ショックだったんだろ」
そう言って吸い差しの火をもみ消し、サイファーはもう一度俺に向き直った。
「スコール、あのな、今後の付き合いのこともあっから、これだけは、ハッキリ言っときてえんだけど」
胸の痛みをこらえたまま身構える。そこまでの態度から、続きは想像がついた。
「俺は、別に今さら、お前をどうこうしようなんて思ってねえからな」
…俺は、ゆっくりと瞬きした。
「…そうか」
いつも通りの声が出た。
いや、必要以上に、ほっとしたような声だったかもしれない。
「余計な事思い出してやりにくいかもしんねえけど、変な心配すんなよ」
「…ああ」
お互いの立場上、これからも何とか同室でやっていくしかないのは事実だ。だが、警戒する必要はない、とサイファーは俺の懸念を晴らそうとしている。
「今までだって、何にも妙な真似してねえだろ?」
サイファーが真面目な顔で訴えてくる。
でも、違う。…俺が今眠れないのは、そんなことを心配しているからじゃない。
もう、言われなくても分かっている。
夢の中のサイファーが俺を見る、眩しそうな目を思い出す。
あんたは、もう…俺のことを、あんな目では見ない。
「サイファー、分かってる。変な話を蒸し返したのは俺だ。あんたが気にすることはない」
俺がきっぱりそう言うと、サイファーはやっと表情を緩めた。
「これで…少しは安心したか?」
「…ああ。いろいろ、済まなかった」
俺が思っていたよりも遥かに、あんたは良い人間なんだな。
こうしてすべてを水に流して、幼馴染みの、頼りない指揮官を補佐してくれる…。
「もう気に病むな。明日こそ保健室行けよ。カドワキに睡眠導入剤でもなんでも出してもらえ」
「…そうする。おやすみ」
サイファーが「じゃーな」と応えるのを聞きながら、後ろ手に、スライドドアのボタンを押した。
ドアが閉まるのを待って、溜めていた息を吐き出す。
胸の痛みは耐え難いほど強くなり、俺はその場にしゃがみ込んだ。
サイファーは、あれを覚えていた…。
…恐れていたとおり、確かに気まずい。
けれど、それは初めに想像していたようなものじゃなかった。
この夢を見始めた頃は、サイファーを好きだったことが恥ずかしかった。あんなにも素直に、サイファーの言うことに従い、頼りにしていた自分を知りたくなかった。
でも今は…それを忘れてしまったことのほうが、百倍も恥ずかしいと思う。
(それで倒れるほど悩んでたのか? バカだな、何年経ったと思ってんだ)
その言葉に、俺は安堵してもいいはずだ。それなのに、「もう取り返しがつかないことだ」と言い渡されたようだった。
実際…取り返しなんか、つかないんだ。
(忘れるほうがおかしいだろ)
そう言ったサイファーの目は、鏡のように冷ややかだった。
サイファーとの間に、見えない壁が見えた。だが、昨日や今日に出来た壁じゃない。今まで俺に見えていなかっただけで、ずっとそこにあったものだ。
(俺がフラれて終わってた話だろ?)
もはやなんとも思っていない口振りに傷付くなんて、図々しい話だと分かっている。
何もかも、サイファーの言うとおりだ。
夢の中の…一秒でも長く、俺に触れていたがってた彼は、もう居ない。あんなにも側に居てくれたサイファーを、壁の向こうへ押しやったのは、たぶん…俺のほうなんだ。
2014.09.21 / Time after Time 9 / to be continued …