One and Only * 8

 サイファーの匂いのするベッドで目が覚めて、俺は全てが振り出しに戻ったことを知った。
 激しい自己嫌悪と甘苦い後悔。
 久しぶりに味わう、情事の名残の痛みがさらに追い打ちをかけてくる。
 俺はいったい何処まで馬鹿なんだ…。
 せっかくあんな、死にそうな思いをして別れたのに。
 今までの人生の記憶を山ほど手放して、ようやく決着をつけたのに。
 あの記憶操作のとき、作業チームは、万が一、俺の過去の記憶が必要になった場合に備えて、非常回路を一本用意した。
 そのキーを与えられた俺の脳は、一晩眠っている間に、解放された非常ルートを使って、閉鎖した記憶領域へのパスをすっかり復元してしまった。
 抜け落ちていたピースが次々に再構築されて、過去を俺に教えてくれる。
 そうだ、あんたはサイファー・アルマシー。
 幼馴染で、ライバルで、俺の敵で、俺の恋人だった男。

 * * * * *

 あの魔女戦争が終わり、紆余曲折の末に、彼と俺はガーデンの同じ部屋に暮らすようになって。
 …初めは、俺の方が先に好きになった。
 もしかして少し好きかも、と思った途端、ひょっとするとだいぶ好きかも、になった。
 だいぶ好きかも、でも自分では重症だと思ったのに、それからあっという間に、どうしよう、死にたい、というところまで転がり落ちてしまった。
 カンの良いサイファーはすぐに俺の気持ちを見抜き…驚いたことに、それを真剣に受け止めてくれた。
 周りには一切秘密だったけれど、俺たちは上手くいっていたと思う。

 俺はその頃、シルバーアクセサリが好きだった。
 忙しい仕事の合間の息抜きに、よく部屋のPCから、新作をチェックしていた。
(こら、スコール。指輪はダメだぞ)
 モニターに映った新しい指輪にうっかり見惚れた俺の頭を、サイファーが小突く。
(俺の考えじゃ、指輪ってのは世界に…)
(一つきりしか無いんだろ。分かってるよ)
 サイファーの自説は何度も聞かされている。俺も別に、新しい指輪が欲しかったわけじゃない。
 あんまり綺麗なデザインだから、少し目を奪われただけだ。
(ほんとに分かってるんだろうな?)
 彼は後ろから手を伸ばして、俺の左手を取り、そこに嵌っている銀の輪を撫でる。
(分かってるよ。あんたは、もう誰にも指輪は贈らない。そうだろ?)
(そうだ。分かってりゃいい)
 ふんっと鼻を鳴らす尊大な恋人を、ちょっとからかってやりたくなった俺は、わざと彼を怒らせるようなことを口にしてしまう。
(つまり、俺も二度と新しい指輪を買ってもらえないってことだな)
(…可愛くねーこと言いやがって。なんだよ、そんなに新しいのが欲しいのか?)
 拗ねたサイファーが後ろから腕を掛けて、俺の首をぐいぐいと絞め上げてくる。
(ちょっ、苦し…っ、サイファっ、やめろっ、てば)
(その指輪より、新しい指輪のほうがいいのかよ?)
 耳元で、低く脅すように囁いてくるが、俺は喉が本気で苦しくて、思うように返事が出来ない。
(そ、んな、こと、言ってない、だろっ)
 どうにか切れ切れに言葉を繋ぐと、わずかに腕が緩んだ。
(ほんとだな?)
(ほんと、だ…この、指輪が、いちばん、)
(いちばん?)
 サイファーは腕を解いて、続きを促す。
 俺は急に解放された気管で、せわしく呼吸をしながら咳き込んだ。
 いつまでも下を向いて咳払いを繰り返す俺に焦れて、彼はデスクチェアに座った俺を、椅子ごとくるりと回して、自分の方を向かせた。
 長身を折って下から俺の顔を覗きこみ、サイファーは重ねて訊いてくる。
(いちばん? 何だよ?)
 有耶無耶にしたかったが、こう追求されては仕方なく、俺は白状した。
(……………いちばん好き)
 自分で言った言葉の甘さに、俯いているのに眩暈がして、目を閉じる。
(よし。許してやる)
 満足げな声が聞こえた。唇に温かいものが触れた。
 俺は…我ながらみっともないほど、サイファーに夢中だった。
 まさか俺からサイファーに別れを切りだすことになるなんて、思いもしなかった。
 エスタで、反体制グループの暗殺チームが、ラグナをつけ狙い始めるまでは。

 それまでも、ラグナからは何度も、エスタに来て自分の力になって欲しいと乞われていたが、俺はバラムを離れたくなくて、SeeDとしての派遣要請に時折応じるのみだった。
 そして6年前、あの恐ろしいテロが起きて、ラグナが片脚を失ったのだ。
 事件直後、憔悴したエルが押す車椅子に、あの陽気な父親が青白い顔で乗せられている映像を見て、俺は打ちのめされた。
 迷ったあげく、エスタに行くことをひとりで決めた。
 サイファーは現在と同じく、バラム国外への渡航を禁じられた身分だったし、俺もいつ帰って来られるかなんて、まったく分からなかった。
 サイファーの渡航禁止期間は10年、その時点でまだ8年以上残っていた。
 若かった俺には、8年はほとんど永遠のように思えた。
 あてもなく待たせるなんて出来なくて、自分から彼の手を振りほどいて逃げた。
 最低の恋人だ。
 そのくせ、それでも俺を見放さないサイファーが、ときどき掛けてくる電話を無視することも出来ず、肝心のラグナのガードが務まらないほど衰弱して、俺は…魔法研究所の技術とG.F.の力を使って、とうとうサイファーを記憶から消すことにした。
 そうすれば、彼も俺を待たなくなる。
 間違いだったと悟って、やっと俺から自由になれる。そう思った…。

 * * * * *

 ベッドの中に人の気配は無い。彼はもう起きているのだろう。
 知らないうちに、俺は見覚えの無い、ストライプのパジャマを着せられている。
 以前、恋人同士だった頃も、よくそうしてもらったことを思い出して、頬が熱くなった。
 カーテンが半分寄せてあって、室内は薄明るい。
 いったい今は何時頃なんだろう…ベッドサイドに置かれたクロックが目に入り、時刻を確認しようと左手を伸ばして、気づいた。

 …薬指に、あの指輪が嵌っていた。

 いつのまにか、綺麗に磨きあげられていて、シルバー特有の柔らかい光を放っている。
 胸が締め付けられるような痛みと、指が震えるほどの何かが入り混じって、俺は泣きたいんだか笑いたいんだか分からなくなる。
 あんたってひとは。
 ほんと、救いようがないロマンティストだ。

 ベッドの主を探して、ぐるりと頭を巡らせると、キッチンカウンターの向こうで、普段着に着替えたサイファーが、コーヒーの粉を量っていた。
 顔を上げた彼が、俺の視線に気づく。
「よう、目が覚めたか?」
 昔と変わりない、さりげない口調。
「…指輪」
 俺も昔のように、愛想なく単語だけを口にした。
 左手をひらひら振って見せる。
「ん~?」
「あんたが嵌めたんだろ?」
「さあな。最初から嵌ってたんじゃなかったか?」
 コーヒーを淹れながら、サイファーが白々しくとぼけてみせる。
 その言葉と…指の印の意味するものに、俺はたまらなくなる。
 なんでそんなに優しいんだ、あんたは。
「怒ってないのか。俺だけ…勝手に、記憶を失くして」
「お前…記憶、戻ったのか?」
「…戻った」
 非常回路のキーは、サイファーの記憶だった。
 その領域は、魔女戦争の核心にも絡んでいて、俺の記憶が必要になったときに、そこだけ回避するなどという都合の良いことは出来なかったため、あえてそれをキーにして、他の記憶よりも厳重に封じた。
 エスタのラボの金庫には、強制復元用のメモリが保管されているが、もうあれには用が無い。
 俺はサイファー本人に触れて、彼のことを思い出した。それから、それに繋がる過去も。
「なぁんだ。人がせっかく、あることないこと吹き込んでやろうと思ってたのによ」
 カウンター越しに、懐かしい、人の悪い笑顔が見えた。そうやってあんたはいつも俺をからかうんだ。
「申し訳なかったな。あんたのお楽しみを奪って」
「まったくだ。それじゃ、俺様が誰かも思い出したんだろうな?」
 サイファーはベッドサイドにマグカップを二つ持ってきて、一つをベッドの中の俺に渡してくれる。
「思い出したよ、サイファー。…元の木阿弥だ」
「逃げ切れなくて残念だったな、スコール?」
 俺は読み違えた。
 彼を忘れてしまえば、きっとこの指輪を捨てられる。
 捨てられなかったとしても、誰がくれたものかなんて、判りようがない。
 だって、サイファーと俺のふたりしか知らないことなんだから。
 そんなふうに、油断していたんだ。
「まさに一生の不覚だ。俺、ほんとに馬鹿だな…」
 まさか記憶の無い俺が、自分から彼に会いに行くなんて思わなかった。
「もう、別れる元気ねえだろ」
「そうだ。…もう一回あんな思いするなんて、無理だ」
「あきらめるんだな。お前、自分から戻ってきたんだから。そうだろ?」
 ふたつのマグカップは揃っていなくて、サイファーのマグには見覚えがあった。
 あの箱の中に入っていた物とおんなじ。あんたって、物持ちがいいんだな。
「あんた、なんで俺を赦せるんだ。俺、酷いことした」
 カップの中の黒い水面を見つめながら、俺は…言わない方が良いことばかり口にしてしまう。
「勝手にあんたと離れるって決めて、勝手に居なくなって、さっさと自分だけあんたのこと忘れて…」
「まだ赦しちゃいねえよ」
「……」
 静かな口調に込められた、複雑な想いに俺は怯える。
 元通りなんて虫が良すぎる、そう分かっているつもりでも、自分の付けた取り返しのつかない傷口が恐ろしくて、言葉が出て来ない。
「ま、あれだな。これから先、いろんなことできちんと返してもらうつもりだから覚悟しとけ」
 サイファーは、俺の強張った顔を見て、表情を緩めた。
 俺の手の中のカップを取り上げて、俺の髪をくしゃくしゃと掻き混ぜる。
 かがみこんで、俺と目線の高さを合わせ、緑色の目で俺の目を覗きこんでくる。
 ひとりになったエスタで、思い出すたび、恋しくてたまらなかったグリーンアイズ。
「とりあえず、一ヶ月以内に次のオフ取って、もう一回バラムに来い」
「…うん」
 俺は、子どものように素直に頷いた。言われなくても、そうしてしまうだろう。
 彼の顔が見たくて、日帰りでも、休みごとにバラムに来てしまいそうで不安になる…。
 それから彼は、少しばかり言いにくそうに目を伏せた。
「それから、お前の居ない間の女関係については、怒るなよ」
「…付き合ってる人、居るのか」
 最後に言葉を交わしてから、5年も経っている。
 居ない方が不思議だ、そう思う一方で、焼け付くような嫉妬を覚える。
 顔に出さない自信が無くて、俯いた。
「次に会うまでには整理しとくから、安心しろ」
「だって、あんた…、好きで付き合ってる相手なんだろ?」
「気に入ってはいたが、愛しちゃいない。向こうも承知の上だ」
 …こんなことを僅かにでも喜ぶなんて、俺は嫌な奴だ。
 俯いた顎を片手で掬われて、仰向かされる。
「お前も女居るなら別れろよな」
 サイファーの思い詰めた口調が可笑しくて、思わず笑みを零してしまった。
「居ないよ」
「本当か? まさか男が居るんじゃねえだろうな?」
「居るわけないだろ」
「そうか。ならいいけどよ」
 案外本気で心配していたらしい。
 ほっと息を吐いたサイファーは、俺の左手を取って、うやうやしくリングにキスした。
「もう外すなよ?」
「…もう外せない」
 小さく答えると、そのまま引き寄せられて、抱き込まれる。
 …本当に、俺でいいのか、サイファー。
 腕の中で顔を見上げると、自然に唇を重ねられる。
 そういうつもりで顔を向けたんじゃないんだけど…目を閉じて応える。
 唇で唇を撫でるような、優しいキス。
 やっぱり、俺は馬鹿だ…また間違った道に戻ってきたのに、この一時の幸せで頭がいっぱいになる…。

 携帯の震えるくぐもった音がして、はっと我に返った。
 壁に掛けたジャケットのポケットから、しつこく振動が響いてくる。
「ああ…あれ。昨夜から何度も鳴ってるみたいだぜ?」
「…」
 忘れてた…。
 そうだ。
 官邸に連絡を入れるのを、すっかり失念していた…。
 一緒に住んでるわけでもないし、昨日も今日もオフだし、などという文句は、ラグナには通じない。
 出無精の俺が連休を取って遠出をするなんて、記憶喪失以来初めてのことで、あの父親は異常に心配していたのだ。
 黙っていれば本当にボディガードを付けそうな勢いだった。
 ポケットから取り出した携帯は、着信ランプがぴかぴかと明滅している。
 嫌な汗が、手のひらに滲み出すのが分かる。
 おそるおそる折りたたみ式のそれを開いてみると、着歴、63件…。
 ラグナ、ラグナ、ラグナラグナラグナラグナ、エルオーネ、ラグナ、エルオーネ…以下延々とラグナ。
 メール、21件。
(スコール。お父さんだ。何時の便で帰ってくるんだ?)
(スコール。泊まってくるかもしれないとは確かに聞いているが、泊まるならちゃんと連絡しなさい)
(スコール。何処に居るんだ? 連絡しなさい!)
(スコール。お父さんのこと、嫌いになったのか? 頼むからメールしてくれよ~)
 …まだ何件もある。3件はエルからで、残りはぜんぶラグナだ。怖くてもう本文を開けられない…。

 携帯を手に立ち尽くす俺の後ろから、サイファーが画面を覗いて吹き出した。
「…あんた、気が付いてたんだろ?」
「ま、ちょっとした仕返しだ。いいだろ、このぐらい。命の恩人だってわかっちゃいるけど、一時期は、結構エグい恨み方してたんだぜ」
「…」
「しっかし、すげえな。これ、一睡もしてないんじゃねーの? あーあー、エルオーネまで付き合わされて。つーかエル、まだ嫁に行ってねーのかよ?」
 …本人が聞いたら怒るぞ。
「スコール、おまえ、今年で歳いくつになったんだっけ?」
「うるさいな」
「しかも世界でトップクラスの腕利きだっつうのに。お前って、マジで箱入りだな…、」
 くつくつと腹を押さえて笑っている。
「あんた、他人事だと思うなよ。これが俺の親なんだからな。バレたときのこと、覚悟しとけ」
「へいへい。まーそうだなしかし、挨拶に行けねえのは困るな。まさか大統領を呼び付けるわけにもいかねえし」
「…」
 この図太さが憎たらしい。おたおたしてる俺が馬鹿みたいじゃないか。
「エスタの入国許可の繰り上げ、コミッションに掛けあってみるかな?」
「馬鹿言うな。一体なんて掛けあう気だっ」
 そうこうしているうちに、また携帯が唸りだした…。
「出ないのか? 親父さん、心配してるぜ?」
「分かってるっ。けど…」
 何て言い訳したらいいのか、まるで頭が回らない。
 何か適当な事を言えばいいのに、その適当が出て来ない。
 こんな状態じゃ、ラグナはともかく、エルを誤魔化せるとは思えないし…。
 まったく、どうしてこんなことになったんだ。
 この指輪のせいだ。
 本当は何度も、捨てようとしたんだ。
「出てやれよ、スコール。カレシの家にお泊まりしたって言えばいいじゃねえか」
「そんなこと言えるか!」
 サイファーが笑って、後ろから腕をまわしてくる。
 その手が電話を持つ俺の左手を包んで、確かめるように指輪を撫でた。
 この傷だらけのちっぽけな指輪ひとつが、どうしても捨てられなかった。
 あのクリスマスの朝、窓からのひかりにかざした、銀色の輝きの記憶が眩しくて…。

 一度はあきらめた指輪なのに、サイファーはもう一度、俺の指に嵌めてくれた。
 ロマンティストの彼に言わせれば、それは、世界でひとつだけ。
 ひとつだけの、本物の印。
 もう二度と忘れることなんか、出来ない。



2012.1.18 / One and Only * 8 / END

 最後までお付き合いいただいた方、本当にありがとうございます。
 ラストがどうにも決まらず、何とか直したくて粘りましたが、時間切れ。こんなんでごめんなさい。耐えられなくなったら、こっそり書き直すかもしれません…。スコール、早く電話に出ないとラグナロクが来て突入されるよ!
 長い話を読んで下さって、ありがとうございました!