んじゃ、おやすみ。
サイファーはそう言って、俺の上にかがみこみ、頬にキスをした。
石鹸の香りと、温かく湿った空気が間近に漂って……やはり遠ざかっていく。
ソファに掛けている俺が、離れていく顔を見上げると、サイファーは優しい顔で訊いてきた。
「ん? どうかしたのか?」
「…いや、別に。…おやすみ」
短く挨拶を返すと、サイファーは特に気にしたふうもなく、濡れた髪を拭きつつ、自室へ足を向けた。
シュン、とスライドドアが閉まる音が背後から聞こえて、俺は読むとも無しに拡げていた本を閉じる。
緊張が解けると、我知らずため息が漏れた。
どうかしたのか。
まさに俺の方がそれを訊きたかったのだが、あんなふうに先を越されてしまっては、尋ねようがない。
つまり、サイファーにとっては、この状態は別に「どうもしない」っていうことなんだろうから。
はかどらない本をローテーブルの上に投げ出し、腰掛けていたソファの上で、行儀悪く寝転がる。
ひとりきりになった、夜のリビングルーム。
とうとう、今夜も誘われなかった。
別段喧嘩をしたわけでもないし、お互いの健康状態も特に問題ないはずだ。
任務のほうも今は落ち着いていて、難しい懸案事項を残しているわけでもない。
しかも、明日はふたりともオフ。
この状況で、以前のサイファーなら、理由も無く別々に就寝、なんて考えられなかった。
それだけじゃない。
部屋の中ですれ違うたびに、ちょっかいをかけてくるぐらいスキンシップが好きだったのに、このところ、ほとんど俺に触れて来ない。
朝晩のキスだけはしてくれるが、実に申し訳程度のゴアイサツだ。
サイファーが五日間の任務から帰ってきた後、こういう状態になってから二週間。
ほぼ三週間、何もしない夜を過ごしている。
リビングのやや傾いた天井を眺めながら、原因に思いを巡らせても、これといった心当たりも無い。
…どうしたんだろう。
恋人の心境をはかりかねて、俺は狭いソファの上で寝がえりを打った。
* * * * *
んじゃ、おやすみ。
俺はそう言って、スコールの上にかがみこみ、頬にキスをした。
スコールは薄蒼い目をゆらゆらさせて、物言いたげに俺を見ている。
「ん? どうかしたのか?」
期待は禁物だが、もしかしたら今日こそ、待っている言葉が聞けるのか。
そう思いながら、しらばっくれて尋ねてみるが、スコールの返事はそっけなかった。
「…いや、別に。…おやすみ」
今日も禁物コースかよ…。俺は落胆を隠して、スコールに背中を向けた。
自分の部屋に入って扉を閉め、髪を拭いていたタオルを投げ捨てて、ばったりとベッドに倒れ込む。
毎晩独りでつくため息が、どんどん長くなっていく。
いったい全体俺は、何でこんなこと始めちまったんだろうな…。
ドアの向こうにスコールが居て、きちんと口説きさえすれば、すぐに同じベッドに入れる筈なのに。
クソ。…こうなったのも、アレだ。…あの忌々しい、ヘタレ野郎のせいだ。
* * * * *
話は三週間ほど前にさかのぼる。
とある政府からB.G.に、内戦終結のためにSeeDを派遣してほしいとの依頼があった。
地方幹部のクーデタから始まった抗争は、あと少しで鎮圧出来る局面までこぎ着けながら決定打に至らず、長期化の様相を呈していた。
間近に選挙を控え、一気に決着をつけたい政治側の事情もあり、かなりの数のSeeDが、前線に投入されることになった。
とにかく実力優先ということで、俺もメンバーに選ばれたが、俺が国外の任務に就くときには、監視官補佐のアーヴァイン・キニアスが同行することになっているため、ヤツも俺と同じチームに入った。
もちろん監視官であるスコールが同行しても構わないのだが、今のスコールは、本人の意向はさておき、よほど重要な依頼でもない限り、自ら現場に赴くことはない。
現地は森林地帯で、SeeD服ってわけにもいかず、迷彩服とヘルメットが支給された(スコールには絶対似合わなかっただろうと思う)。
四日目に森の奥で反乱軍の本拠地を発見し、間もなく派手な戦闘になった。
始まってみると戦力の違いは明らかで、俺たちは敵を二時間ほどで制圧した。
ところが、最後の最後になって飛んできた流れ弾が、アーヴァインの下腹近くをかすめた。
一瞬自陣に緊張が走ったが、当の本人が急所を押さえて「ああーーーびっくりしたーー!」なんて頓狂な声をあげたもんだから、周囲からどっと笑いが起き、なんかあったら彼女に怒られっぞ~、などと下世話な冷やかしが飛んだ。
アーヴァインが「セフィに殺されるところだった~」と抜け抜けと明るく惚気るので、俺はついイラっと来て、「しばらく使えねー方が喜ばれるんじゃねーのか」と軽口を叩いた。
するとヘタレ野郎はおもむろに俺を振り返り、にっこりと顔じゅうで微笑んで、言いやがったのだ。
やだなあ、サイファー。それはキミのほうじゃない?
思わず「誰に向かってそんな口きいてんだ、ああ!?」と殺気を出して詰め寄っちまった。
「ええ~っ、キミが言いだした冗談なのにひどいなぁ、本気にしないでよ~」
後ずさる奴の間延びした返事に、ハッと我に返った。
ヘタレの言うとおりだ。…何をムキになってんだ俺は。
俺とあのスコール・レオンハートが恋人同士なのは、周知の事実だ。
ここで妙に騒ぎ立てて、くだらねえ噂のネタにでもなったら、スコールに怒られる。
結局俺は、お前の言い方がなんかムカツクんだよ! と怒鳴ってから、さっさと撤収作業に移ってその場を誤魔化した。
だが、ヘラヘラしたあの一言が、俺が日頃から漠然と気にしている核心を突いたのは確かだった。
波瀾に満ちたいきさつを経て、スコールを俺のものにして、もう一年以上の月日が過ぎた。
しかし、スコールの方から、自発的に俺をベッドに誘ったことは、考えてみると一度もねえ気がする。
ヘタレ野郎とのやりとりが脳裏に甦る。
(しばらく使えねー方が喜ばれるんじゃねーのか)
(やだなあ、サイファー。それはキミのほうじゃない?)
いや、違う。そんなはずは無い。
スコールはひどい照れ屋で、好きだの愛してるだのっつー言葉も滅多に発さないし、ベッドでも何かと嫌がる素振りを見せることも多い。
それでも決して、俺とするのを本当に嫌がってるってわけじゃねえ。…はずだ。
そもそも、俺が頻繁に誘いすぎるから、スコールから誘う機会がねーんだ。
たまには少し、ブランクを空けてみるか。
なに、スコールだって若い男なんだ。
一週間も待てば、何か言ってくるに違いない。
大きな声じゃ言えねーが、俺たちは周りのヤツらが思ってるより、ずっと上手くいってるんだし。
* * * * *
そのときはそう思ったんだよな…。
無事にガーデンに帰還して、いつもならその晩にも打診するところを、俺はどうにかやり過ごした。
その次の晩も、その次の晩も、スコールの様子を俺は黙って見守り続けた。
ところが。
待てど暮らせど、アイツはうんともすんとも言って来ねえのだ。
スコールを信じて始めた禁欲生活は、俺の予想をはるかに裏切り、もはや三週間になろうとしている。
こっちはもう焦げ付いて煙が出るぐらい欲求不満なんだが、アイツは同じ部屋にいながら、淡々と日々を暮らしている。
ただ、最近になって、おやすみ、とキスをするとき、少し心細げな顔をするようになったぐらいだ。
今夜こそ何か言及するかと思い、思い切ってどうかしたか、と水を向けてみたにもかかわらず、アイツの返事は「別に」だった。
別に、か……。
スコールにとっちゃ、体の繋がりってのは「別に」程度のものなのかもしんねーけど。
実際、ディープキスでもしかけてその気にさせるまでは、いつも全然欲しそうな素振りないもんな。
付き合ってた女でさえ、スコールの方からどうこうしたわけじゃないって話だし。
しかし、こうもなんのリアクションもないと、それなりに満足させてる自信があっただけに、ダメージがデカイ。
俺にとってたまらなく愉しく、素晴らしいベッドでの時間は、アイツには必要ないものなんだろうか。
俺から無理に煽られなけりゃ、俺なんか無しでも平気なのか。
なあ、スコール。
お前は、ホントになんともねーのか?
俺はこの三週間、お前に触りたいのを、正気が捻じ切れそうなほど、必死で我慢してるのに。
* * * * *
俺は無意識に、すぐ隣の部屋にいる恋人に、心の中で話しかけている。
なあ、サイファー。
俺、何かあんたの気をくじくようなことをしたのか?
最後にベッドを共にしたとき、翌日早朝に予定の入っていた俺は、確かに少し嫌がってみせたけど、それが本気の拒絶でないことぐらい、サイファーには分かったはずだと思っていた。
終わった後、いつものようにキスも交わしたし、雰囲気だって悪くなかった。
…どうしてなんだろう。
そう思いながらも、俺は心の隅から薄暗い気持ちが湧いてくるのを抑えられないでいる。
…どうしてなんだろう、なんて、思うまでもないのかもしれない。
そもそも、男同士でベッドを共にするほうがオカシイ。
いつもはなるべく考えないようにしていることを、もうひとりの自分が蒸し返して来る。
サイファーは、何かのきっかけで、やっと我に返ったんじゃないのか。
どうしてもそんなふうに考えてしまう。
…。
リノアと付き合っていたときは遠距離だったから、三週間のブランクなんて別に気にも留めなかった。
だけど、こんなふうに毎日側に居て何もないと言うのは、事情が違う。
誰にという訳でもないけれど、念のために言っておくと、俺はそっち方面の欲求は薄い方だと思う。
それでも、ここまで放って置かれると、流石に気になる。
それまでは、むしろ困るほど頻繁に求められていたのに…。
もしかして……ただ単に、俺に飽きたのかな。
そんなことまで考えてしまって、慌てて自分で否定する。
サイファーは、そんな人間じゃない。
俺相手の恋愛を、娯楽の一種のように扱う男じゃないはずだ。
自分の考えに勝手に自分で傷つくなんて、馬鹿げてる。
こんなところでだらだらと暗い分析に耽っているよりも、睡眠をとったほうが有意義だ。
俺はソファから重たい体を起こし、どうにか立ち上がった。
空になったマグカップをキッチンに運んだものの、洗う気になれず、シンクに放置する。
読みさしの本を拾い上げ、自室の扉を開く。
リビングルームの電灯を消すと、暗闇にサイファーの寝室の扉から微かに差す光が浮かび上がった。
すぐそこに居るはずの彼が、ひどく遠くに行ってしまった心地がして、俺はその考えを払うように首を振り、ドアを閉めた。
別にただ、隣で寝てくれるだけでもいいのに。
そう思っても、付き合い始めた当初、毎晩一緒のベッドで眠りたがるサイファーに「休息も仕事のうち」と厳しく線引きした手前、なかなか言い出すことができない。
あの頃は、「何もしない」なんて言ったって、狭いベッドに入るとすぐにサイファーがキスしてきて、俺の方もついつい流されたりして、翌日寝不足、なんてことがしょっちゅうあったからなのだが。
今のサイファーは、もうそれほど切実に、俺を必要としてないのかも。
…そんな女々しいことを考えてしまう自分が、ものすごく鬱陶しい。
明日こそ、男らしく訊いてみよう。
…って昨日も思ったような気がする…。
こんなこと、誰にも相談出来ないし。
俺は幾つ目か分からないため息をつき、ひとりでベッドに入った。
部屋の明かりを落としても、しばらくは眠れなかった。
2012.6.23 / BLANK * 1 / to be continued …
このサイトのスコールが女々しいのはいつものことですが、今回はサイファーまで女々しいです。女子校かよ!いったいわたしはどういうサイスコを書きたいのか、自分でも分からなくなって来ました…。
後編は魔女のターンです。相変わらず恋多き女なので、そういうリノアでもオッケーなお客さま、もしいらしたら是非、後編もお付き合いください。