禁煙三日目 (サイファー編)

 しくじった。死人が出なかったから良かったようなものだ。
 難易度B+評価の任務に対して、平均ランク20のSeeDチームの成功率は78%。それを失敗したと報告しても、指揮官は別段叱責などしなかった。いつもの「御苦労だった」の一言に、報告書は詳細に書いてくれ、と注文を添えただけだ。了解の返事をして、俺は指揮官室を辞した。最悪の気分だ。

 海を進むガーデンの二階デッキに出て、手すりに背中を預けた。何もガーデンがわざわざ迎えに来たわけじゃない。定期点検の復路と任務地が偶然にかちあっただけだが、失敗の報告を長々と抱え込まずに済んだのは有難かった。
 快晴の、日のひかりが眩しい。対面の海の向こうに、遠ざかる街を眺める。

 昨夜、とある新興国の軍からの依頼で、逃亡した下士官と兵卒をひとりずつ捕獲するはずだった。ガーデンのチームは三人、相手より必ず多い人数であたる鉄則通りの配備だったが、一人はわき腹を切られ、一人は右脚を撃ち抜かれた。無事だったのは、班長の俺だけだ。中間報告を通信で入れたところ、仕切り直すからと撤収を命じられた。惨めだった。

 駆動系の振動が背中に伝わってくる。冷たい潮風が顔を軽くなぶり、ジャケットの裾を膨らませる。いつもならここで一服して、気持ちの整理をつけるところだが、それは許されない。今が一番しんどい辺りかと考えたところで、スライドドアが軽い音をたてた。
 いつの間にか閉じていた目を薄く開けると、デッキに出てきたのは予想通り、指揮官専用の制服に身を包んだ無表情な男。先客の俺に声も掛けず、進行方向を背にした俺とは反対に、開けた水平線と向かい合う。それからおもむろに、黒革のシガレットケースの中身を一本抜き出しながら訊いてきた。
「あんたは?…また禁煙中か?」
「うるせーよ」
 いま付き合ってる女はバラムの医者だ。かなりのいい女。しかも面倒な事に、俺に約束をさせる方法を心得てると来てる。その約束を二度反故にした。三度目は覚悟しておいて、と言い渡されたばかりだ。
 スコールは左手を口元にかざして、かちりと鳴らしたライターの火を風からかばう。ライターの蓋を閉める心地よい音に続き、ふーっと美味そうな溜息が聞こえてむかっ腹が立つ。
 テメエ、わざとだろ。
 横目で睨みつけてやっても、こいつにはまるで効きやしねえ。
 指揮官は俺の視線を涼しい横顔で受け止めながら、携帯のアシュトレイの蓋を跳ねあげ、長い人差し指であやすように煙草を叩いて灰を落とす。
「…何日目になる?」
「三日目だ」
「へえ。キツそうだな」
 まさに聞いてみただけ、100%他人事っていう口調。これにキレたら負けだ。流れてくる煙の香りにたまらない誘惑を感じるが、下っ腹に力を入れ、余裕のある声を装う。
「お前もやめたらどうだ。健康に悪いぞ」
「俺はやめられないな。麻痺させてくれるから」
 指揮官にしちゃ危ない発言だ。
「わざわざ毒を吸い込んでるようなもんだ」
 不味くなれ!と呪ってやるが空しい。晴天の下での一本の良さは、吸っている人間にしか分からないだろう。
「俺の仕事なんかどうせそんなものだし、」
 スコールは言葉を切って瞼を伏せ、ゆっくり煙を吐き出す。
「麻酔なしでは痛みが過ぎる」
 ちっとも痛くなどなさそうなツラで淡々とそう続けて、指揮官は吸いさしの先をトレイに擦りつけた。
 スコールの見透かしたような物言いが、気に障るのに身に沁みる。いつからなのかは分からないが、確かに俺の胸には、ひりつくような痛みがある。
 昨日の任務に関して言えば、クライアントの理不尽な軍律が、最初から気に喰わなかった。しかしガーデンも商売だ。学園長が引き受けた任務を実現するよう組み立てるのが指揮官、俺はその手で組み合わされるパーツのひとつに過ぎない。

 今日は波が静かだ。
 ガーデンが立てた白い泡が、洋上に長い尾を曳いている。
 あのふたりは逃げ切れるのだろうか。それとも捕まって処分されるのだろうか。ただ上官がハズレだったというだけで。下士官は名の通った手練だったが、部下のほうは中の上という評価で、SeeD三人で当たれば問題ないはずだった。俺も相手を見くびっていたのかもしれないが、破れかぶれの抵抗が本来の実力を超えていたのは、その憤りが本物だったからだ。存在を掛けた真摯な怒りを感じて、こちらの立場の汚さにひるんだのも事実だった。ターゲットの消えた街が、過ぎた海の向こうに小さく光っている。

 またライターのかちりという音がした。横目で見ると、スコールが二本目の煙草を唇に挟んで火を付けていた。
 この野郎。ガーデンは広いんだ。なんだってよりによって、禁煙中の俺様の隣に来て吸いやがる。ふてくされて手すりに凭れたまま目を閉じると、突然、瞼のうちに差す陽が陰った。唇に何かをねじ込まれて、驚いて目を見開く。

 スコールの薄蒼い瞳が、まっすぐに俺を見ていた。

 フィルターのかすかに甘い香り。
 スコールがたった今、目の前で口を付けたフィルターだと分かるまで、少しかかった。言うべき言葉を思いつかないまま肺いっぱいに息を吸い込むと、胸にわだかまった苛立ちがすうと溶けた。鼻から息を吐く。二筋の煙が上がる。こいつは理解している。何故俺がしくじったかを。俺の中に、迷いがあったことを。
 正面に立つスコールと両目を合わせ、唇に突っ込まれた煙草を、もう一口吸う。その瞬間、ニコチンがくれた天啓が閃いて、俺も理解した。この目の前の涼しい顔の男の中にも、本当は迷いがあり、それが俺と同じように痛むのだと。
「…要らないなら、続きは俺が吸うけど?」
 ここまでやっておきながら、急にしおらしい声で訊いてくるのは反則だ。無言でいると、回収しようと指が伸びてきた。それを右手ではたきのけて、人差し指と中指の間に、吸いかけの煙草を収めた。
 手に馴染んだ、愛おしい感覚。焦げる紙のほこり臭い匂いに、胸の痛みが芯から和らいでいく。
 クソ。
 脱力して長く煙を吐き、俺は壁に背を付けたままずるずるとしゃがみ込んだ。
「……死ぬほど美味い」
 憮然として言い捨てると、スコールは満足そうに目を細める。
「へええ。それなら俺も三日ぐらいやめてみようかな?」
 いつになく可愛い口調で言いやがるのがまたムカつく。
「悪魔だな、お前」
 捨て鉢になってケツをデッキに落とし、その場に胡坐をかいた。もう一度肺まで深く吸い込む。そうだ畜生、俺にはこれが必要だ。自分の手ごたえが戻ってくる、何十時間もの神経が焦げるような我慢をすべて水の泡にして。もしも次の任務がまたあのふたりの捕獲だとしても、今度は完遂出来るだろう。
「今さらあんただけ、清らかに生きようなんて抜けがけが赦せない」
 幼馴染の指揮官は、美貌に薄い笑みを浮かべ、冗談ともつかない台詞をさらりとのたまう。冷たいはずの眼に宿る、悪意のような強い光。認めたくは無いが一瞬見惚れる。まったくこいつは大したタマだ。
「じゃ、俺は戻る」
 用は済んだとばかりに、スコールはあっさりと踵を返した。
「お忙しいこって」
「ごゆっくり」
 スコールは背を向けたまま、お座なりに手をひらひらさせたが、デッキの自動扉が開いたところで振り返った。
「そうだ、灰皿は貸しとく」
 銀色のアシュトレイを放ってよこす。陽光を受けて輝きながら回るそれを受け止め、再び視線を戻すと、もうドアは閉まっていた。

 結局、挟んだ指が焦げるほどぎりぎりまで吸って、灰皿の蓋を開くと、スコールが吸った煙草が一本、長く残っていた。ほとんど減っていない。そこで初めて、それがスコールが吸っている銘柄でないことに気づいた。
 あいつ、俺が何吸ってんのか覚えてたのか…。なんだってわざわざこういうことをしやがる。さっきまでとは別の、苛立ちに似た甘苦いものが、じわりと胸にひろがる。
 禁煙にまた失敗した、それは確かだが、灰皿に捨てる前に、フィルターにもう一度唇を付けた理由は、自分でも説明できない。



2011.11.30 / 禁煙三日目 / Seifer / END